Lv100第七十三話
「オロチ編その3 ミドガルズオルム」
登場古生物解説(別窓)
「検証できるならできる限りやらないといけないんです」
 そう園長に告げると、園長は快く私の要求を受け入れてくれた。つまり、エウロパサウルスとプロバクトロサウルスの作業シフトを組み換え、私がタンバティタニスの飼育の検証に注力できるようにしてくれたのである。
 私に残った作業はほとんど老齢のザックスの観察のみとなった。
「検証の結果タンバティタニスの飼育を諦めないといけない可能性もあると思いますが」
「もちろんそれでいいよ。結果がどっちでも得られたもので園をよくしていけるだろうから」
 タンバティタニスとその生息環境の理解が進めば、生体がいなくてもまとまった展示になる。
 それに、大林さんのビオトープや、西宮市の植物園「古環境復元センター」によるカエルや植物を活かすことも考えられる。
 すでに古環境復元センターの論文がこの「きょうりゅうの国」にいくつも届いていて、まずはそれを読み進めればよかった。
 博物館に来ていたあのカエルには大きな力がある。私自身見学で四足動物の説得力を感じてしまったし、古環境復元センターの研究によって少なくとも雨季の環境はかなり推定できていることになる。
 植物のほうも、針葉樹などは何年も立ち続けて育つのだから年間通じての環境を反映しているはずだ。合わせれば当時の環境の大部分は復元できるということだが……。
 当然、まだ明らかになっていないことが課題として述べられているし、読んでいる私にも疑問点くらいある。漫然とただ読み進めるのではなく、分かったことと分からないことを全てメモするという行動を取らなくては頭に入らない。
 そして、古環境が再現できるかどうかという問題は検証の一面でしかない。
 そろそろザックスのハズバンダリートレーニングが始まる時間だ。私は事務所を出て、担当の職員と合流した。
 二メートルの細い竹竿の先にペットボトルを取り付け、黄緑のビニールテープを巻いたものを持っている。ハズバンダリートレーニングで使うターゲットという道具だ。
 曇りがちだが日が差すと暑く感じるようになってきた。多くの恐竜には適温だが、ザックスが外に出たら消耗するかもしれない。
 竜舎の中はやや涼しく感じられた。
 ザックスはゆっくりとこのターゲットに視線を向け、それからこちらに振り向いた。なんだかすっかり老け込んだように見えるが、ターゲットに口先をつければ好みの餌がもらえることを忘れたりはしていない。
 こうしてターゲットに反応して近付くように覚えてもらえば、健康管理やこちらの都合での移動がしやすい。
 今も横からじっくりと体の様子を見て、左の首筋にやや擦りすぎの跡があるのが分かった。柱に巻いた樹皮を柔らかいものにしたほうがよい。
 こうした技術は、十メートルを軽く超える大型恐竜ではどうなっているだろうか。文献の知識は入れているが、改めて実地の技術として検討する必要がある。
 幸い、ここには古環境復元センターだけでなく、すでに大型のアマルガサウルスを飼育している科学動物園からも論文が届いていた。アマルガサウルスはタンバティタニスと分類や体型は違うが大きさや環境は近い。どの部分が応用できるだろうか。
 いっそアメリカの米国立自然史動物園でディプロドクスの飼育を見学させてもらいたいくらいだが……。

 などと漏らしつつ論文を読んでいたら、数日にしてそれがあっさり叶ってしまった。
 朝六時半という、普通なら滅多に出勤することのない早朝。
 先日は教育委員会の代表が緊張して映っていたオンライン会議の画面に、今日はやたらと様々な人種・年齢のアメリカ人達が妙に楽しそうに映っている。
 もちろん、リーダーらしき黒人男性と園長が話すのも英語である。
『ダイナソーランドの皆さん、バーチャル見学にようこそ!』
『大勢でのご歓迎ありがとう。見学会を開いてくれて本当に助かります』
 ダイナソーランドというのは「きょうりゅうの国」の英名だったか。私より園長のほうがはるかに英語が堪能なようだ。大林さんも横にいるが、手元のVRゴーグルをやけに嬉しそうに眺めまわしているだけで英会話をする気はなさそうだった。
 そう、自然史動物園のバーチャル見学会とはただのオンライン会議ではなくVRゴーグルによる上映がメインなのだ。
『タムバタイタニスって知らなかったメンバーが多くて、変なこと言ったらごめんね』
『ああ、気にしないで』
 聞いてから理解するのに時間がかかったが、タンバティタニスを英語風に発音するとそうなるらしい。
『ブラキオサウルスの近縁って聞いてみんなすごい応援する気になっててさ』
『それはありがたい』
 ブラキオサウルスは再生飼育されていない種類だが、大きいから人気があるのだろうか。タンバティタニスはそこまで近縁でも大きくもないので彼らの期待に沿えないかもしれない。
『でも君達こそすぐディプロドクス見たいだろうからVRゴーグル付けてね』
『すごいよねえ、VRの見学会の用意まであって』
 どうも園長は自腹を切って三台も買ってきたらしい。ありがたく着けさせてもらう。
『ここはフロリダだけど化石が出る地域や博物館はもっと北だからね。みんなが見られるように早めに整備したんだ』
 その声がパソコンのスピーカーからではなく耳元のヘッドホンからに切り替わる。
 眼前の光景は、自動車の車内と大きめの車窓となった。しかも肉眼で見ているのと変わらない立体感がある。
『見学用の車両だね?』
『そう!耳の上にカメラを付けたメンバーに電動装甲車に乗り込んでもらってるよ』
『こちらドライバーのジェフ』
『カメラマンのアニタ、今日はよろしく』
『よ、よろしく』
 今回初めて口を開いた気がする。
 大林さんが横でわーわー言っているのは聞こえている。そうでなければ窓から見えているものに圧倒されて本当に喋れなくなっていただろう。
 少しだけ傾いた日の光の中、あまりにも巨大なディプロドクスの脚が立ち並んでいる。その向こうの荒野は、おそらく地平線まで全て放飼場だ。
「うわ、すっご!ほらめっちゃデカい!ちゃんと並んでる!」
「大林さん、その、日本語では向こうの皆さんが戸惑いますので」
 たしなめながらも内心では大林さんに感謝していた。
 大林さんのにぎやかな声が、これが悪夢ではなく、安心して見ていていい穏やかな現実だという補償のように感じられたので。
『窓からちゃんと見てみましょう』
 いきなり視界が動いて全て車窓となる。そこには、巨大な青白い脇腹があった。
 しわの一本一本、いや、鱗の一つ一つまでもが確認できた。それぞれの鱗は薄い褐色から藍色まで色がばらついていることに初めて気付いた。呼吸の収縮より歩きによる揺れのほうが目立った。
『やあフレディ』
 この十頭の群れの中で特に大きくて有名な個体の名だった。そしてまた視界が動き、首ではなく、大木のような後ろ脚と、全長の半分近くを占める尾が映った。
『王様はご機嫌のようだね』
 現在の地上で最大の恐竜、フレディは、尾のごく細い先端までゆったりとした波を伝えながら歩いている。こういうときは体調がよくリラックスしているはずだ。
『尻尾の動きで調子が分かるのは皆さんの観察の成果だね。おかげで日本でも図鑑のディプロドクスのページは今の生き物みたいに充実してるよ』
『じゃあ日本の子供が見てもフレディの機嫌が分かるんだ。嬉しいねえ』
 園長と向こうのリーダーが嬉しそうに話している。
 そうだ、図鑑で分かるようなことを見せてもらっている場合ではない。見て気付いたことや、あらかじめ調べて気になったことを聞かないと。
『論文を読んだのですが、彼らはこの広い放飼場の全てを歩き回るのではないのですよね』
『うん。ごくたまに端まで行くこともあるけど』
 リーダーが答えてくれるのに合わせて目線が遠くを向き、地平線のほうがうっすらと緑色になっているのが見えた。ディプロドクスが食べなかった植物だろう。近くにはクローバーなどがちらほらと生えている。
『論文には二つの理由が考えられるとありました。餌が充分なことと敵から逃げる必要がないこと、どちらがより強く行動範囲を制限しているか観察から判断できますか?』
『おっ、そうだねえ……。やっぱり、餌が充分なせいかな』
 よかった。私の質問が通じているみたいだ。
『フレディみたいな大きいのは何かに驚くことはなくって、餌探しのために歩いてるね。で、小さいのはフレディ達に隠れるようにして歩けば安心だね。こんな感じで度胸がある大きい個体が群れ全体の行動を決めてるから、餌探しで行動範囲が決まってると思うよ』
『ありがとうございます』
『ちょうど群れが餌台に近付いてます。全体を見ますか?』
 カメラマンのアニタさんの声。
『お願いします』
 餌台の位置が行動範囲を規定しているのかもしれない。
 観察車は静かに走り出し、大きなフレディの脇腹から離れていった。
 車窓の両側にじわじわとフレディの首と尾が現れるが、なかなか車窓に全てが収まらず、今度は途方もない長さを丸ごと実感することになる。
 尾は地面と平行を基準にして緩やかに波打ち、首は上向きのごく浅い弧を描いてすらりと伸びている。こんなに長い動物が陸に立って存在できるとは。
 さらに群れ全体が視界に収まると、その雄大さはフレディ一頭をはるかにしのぐ。背筋に沿って並んでいる小さな棘のせいで輪郭があいまいになるのもあって、首と尾がつながり合って見える。あたかもシロナガスクジラの何倍も大きいひとつの生き物のようだ。
 そんなものを住まわせられる環境が作れるなんて……、
 大林さんが騒いでいるのがまだ聞こえる。そちらはこの際放っておいて、
『左右に広く間を開けていますね』
『歩いてるときは首を左右に振る範囲がお互い重ならないようにしてるね』
 首を下げたまま歩いて、地面からクローバーなどをむしっている個体が多い。
 群れの先頭の集団はもう餌台に辿り着いていた。
『ほら、先に着いたデヴィッドが手前の餌台から食べ始めてるよ』
 人の背丈ほどからディプロドクスの肩より高いものまで、色々な高さの塔が十メートルほど間隔を開けて並んでいる。しっかりした鉄の骨組みが植物の繊維でくるまれていて、頂上には木を組み合わせた皿状の部分がある。
『クリスティーナが後から来たけど……、今デヴィッドと同じ台をちょっと見たね。でも止まらない。デヴィッドが邪魔なところに止まりたくないんだろうね。隣の台で食べるみたいだ』
 そのまた後から来た個体もその繰り返し。こうして、異なる高さの台に異なる大きさのディプロドクスが取り付いた。おのずと首の向きもそれぞれで異なる。
『どの個体も毎回食べる台を変えているのですよね』
『全然順番とか気にしないみたいだからね。おかげでエンリッチメントになるってわけ。餌台のカメラに映像を切り替えてみる?』
『お願いします』
『オーケー。視界が切り換わるから気を付けてね』
 視界が暗転し、その次の瞬間には目の前にディプロドクスの顔があった。
「わ」「わ」「わ」
 つい大林さんと園長と三人揃って普通に驚いてしまった。
 円卓をディプロドクスの縦長の顔と向かい合って囲んでいる形だ。
 ただし円卓は塗装していない木材でできていていくつも段差があり、盛られている料理は全てディプロドクス向け、トウモロコシの残滓をベースにした円筒形の配合固形飼料である。
『最初に食べ始めたデヴィッドだよ。もうだいぶ食べて台が見えてるね』
 頭の全体的な形はおおむねウマに似ているといっていい。首を素早く前後にしならせて口先で餌をむしり取り、目はそのずっと後上方で左右を監視している。鼻筋は頭頂から口先まで続き、鼻の穴が口元で開いている。
 しかしもちろん、その肌は青緑や灰色や浅黄色の細かな鱗で覆われている。目の周りに深く刻まれたしわとともにゆっくりとまばたきをする。当然まつ毛はない。
 口元は柔らかい唇というより、クチバシのように固くなっている。そして上のクチバシの両脇には超小型カメラが貼り付けられているのが見えた。これで食べているものを記録するのだ。
『音もよく聞こえますね』
 ガリガリという音まで餌台から届くようになっていた。デヴィッドが歯とクチバシで台の木材をこする音だ。
 餌台の溝や穴にも飼料が入り込んでいて、デヴィッドはそれらを取ろうと前歯で……ディプロドクスには前歯のような歯しかないが……、台にかぶりついているのだ。
 博物館で見たタンバティタニスの歯と、普段見ているエウロパサウルスの歯を思い浮かべる。
『歯がうまく削れるようになってるんだよね』
 園長の声。
『うっかり口が閉じなくなりそうになってね、昔。それで歯を化石と見比べたんだ』
 生体を再生できても化石からの情報は変わらず重要なのだ。
 化石からの情報といえば。
『この飼料は針葉樹とシダとトクサの栄養価を反映したのでしたよね。どのようにしてこれらをディプロドクスの主食として選定したのでしょうか?』
『おっ……とー』
 何でも即座に答えてくれていたリーダーが初めて答えに詰まった。
『ちゃんと資料を見て植物班にも聞かないと分からないなあ、また後で答えを送るのでいいかな?』
『よろしくお願いします。他の資料もまたお願いするかもしれません』
『もちろんいいよ』
 リーダーの快い返事がもらえた。
 話しているうちに餌台の飼料は取りづらそうな数粒を残してなくなり、デヴィッドは少し顔を上げて餌台のカメラに映らなくなった。
『他の餌台を見るかい?』
『それでは、次は地表の植物を食べている個体をお願いします』
 再び視界が暗転してから遠景に切り替わる。
 やや離れたところで、他と比べて小柄な個体が頭を下げていた。
『フランだ。少し近付いてみよう』
 観察車が走り出し、フランと呼ばれた個体がクローバーだけでなくアブラナらしきものも食べていることや、喉の下に小さな機器が取り付けられているのが見えてきた。
『餌台には減った餌の重さを量る仕掛けがあって、他の場所では喉の動きを測って食べた量を推測するんでしたね』
『自由に食事してるときにも少しでも食べた量を把握しておきたいからね』
 当然の措置といえるが、問題は実効性だ。
『正確に測定できるのでしょうか?』
『まあまあだね。ただキャリブレーションの手間がかかっちゃうんだ』
『キャリブレーション?』
『測った数値が合ってるかどうか。餌台で重さを量りながら喉のセンサーの信号と照らし合わせれるんだけど、かなり前にできたシステムで面倒が多くって』
 こんな量りかたではきっとそうなのではないかと思っていたことが裏付けられた。
『改良できる可能性はありますか?』
『口に付けたカメラだね。今は食べた植物の種類をモニター越しに確認してるけど、画像認識で量も測るようにしたいな』
 きっとそのほうがずっと扱いやすいだろう。
 向こうで他の職員からリーダーに声がかかるのが聞こえた。
『今ハズバンダリートレーニングが始まるところだ。見るよね?』
『行きましょう』
 観察車はまた走り出した。
 中程度の大きさの個体が、餌台から離れて首を左右に振っている。さらにその向こうに、くすんだ緑色をした頑丈そうな車両が見える。
 車両の屋根には蛍光グリーンをした、畳んだ提灯のようなものがある。
『ああ、あれが』
『そうターゲット車』
 袋がむくむくと膨らんでいく。空気の力で必要な時に現れるディプロドクス用特大ターゲットである。
『トムも気付いたみたいだ』
 トムと呼ばれたそのディプロドクスは、首を左右にうねらせてターゲットの膨らむのを見つめていた。
 ターゲットがすっかり膨らんでトムの腋まで届く円筒形になると、車両は人間の歩く程度の早さでゆっくりと走り出し、トムもそれを追いかけ始めた。
 二百メートルも進むと、何も生えていない砂地に出た。十数メートルの間隔を開けて四方に杭が立っている。
『体重計に着いたぞ』
 杭の内側の地面に特大の体重計が埋まっているのだ。
 ターゲットの頂上には、ディプロドクスがターゲットに触れると少量の餌が出てくる仕掛けが付いている。
 いわゆる松の実だったはずだが、よほど嗜好性が高いのがトムの目線や食べる早さから読み取れた。
 それをトムがつまんでいる間に、職員の手元に体重が送信された。
『九トンちょうどくらいだ。まだまだ大きくなるな』
 そう言っている間に見学車両はトムの尾から頭に向かって、さっと並走した。
 九トンもあると驚くべきか、それともこの長さで九トンしかないと驚くべきなのか。
 観察車はターゲット車を通り過ぎてUターンし、またトムの頭から尾へと走った。
『体全体のスキャンもできた。目立った異状はないみたいだ。爪先や口の中なんかはまたじっくり見るけどね』
『このトレーニングの感覚を掴むのは難しいですか?』
 もしかしたら自分がタンバティタニスにやらなくてはならないかもしれないのだ。
『うん。普通と違って動物が目の前にいないし、あまりにも大きいから、感覚も考え方も別物なんだ。普通は動物と人間がお互いに約束事を守る、なんていう言いかたをするでしょ』
『ええ、普通の大きさであれば』
『でもディプロドクス相手だとそんな次元じゃない。だからディプロドクスが誘導できさえすれば、管理する僕らにもディプロドクスにも都合のいいことが起こる仕組みを作ってあるんだ。ティラノサウルスもそうだね』
「ティラノサウルス!?今ティラノサウルスって言った!?」
 大林さんがなぜか英語の「タイラノソーラス」のような発音だけ聞き取ったらしく、急にテンションを上げた。
「大林さん、日本語では」
 園長がフォローする。
『ティラノサウルスにも関心があってね。そっちもまた見せてもらえたら』
『もちろん、もちろん』
 向こうのリーダーは突然の騒ぎ声にも泰然とした態度を崩さなかった。
『竜舎が見えるけど今回は中までは案内できないかな』
 体重計からさらに向こうに、飛行機の格納庫にしか見えない建物がある。確か本当に飛行機の格納庫を補強して保温したものだ。
『とっくに外で寝ても大丈夫な季節なんだけど管理上できるだけ中に誘導して寝かせるんだ。扉は閉めないけどね』
『竜舎の中に入るのに抵抗しませんか?』
『若い個体ほどむしろ進んで入るかな。みんなあの中に作った茂みで育ったわけだし』
 竜脚類の卵や赤ん坊は意外にも数十センチしかない。ああ見えてディプロドクス達にとっては安心できる実家というわけか。
 話している間にも見学者はゆるゆると進んでいき、竜舎が自然に生えた植物で囲まれているのが分かる。
『フロリダでも冬は急に強い寒気に見舞われることがあると聞きました。そういうときにも竜舎への収容が必要になりますか?』
『そうそう、毎年必ず一度は全員中で過ごしてもらうことになるね。フロリダでもさすがに冬はジュラ紀の生き物に厳しいよ』
 そのうちに、植物が途切れて水面が覗いているのが視界に入ってきた。
『池がありますね。ディプロドクスは水に入りますか?』
『水に入ったことはないはずだね。もし入ったら腰だけ沈んで身動き取れなくなるって言われてるけど。あ、でもそこから水を飲んでるから水質は維持されてるよ』
 そのとき、その池に全然違ったものが飛び込んできた。
 一瞬、翼竜が放し飼いになっているのかと思ってしまった。
 西日に燃える鮮やかなピンク色をした、長いしゃもじのようなクチバシをした水鳥が三羽。
『ロージエート・スプーンビルだ』
「ベニヘラサギ……すごい、綺麗」
 大林さんがぼそりと、しかしさっきまでの大声より気持ちのこもった声で言った。
『この放飼場は二つの自然保護区に挟まれた農地を買い入れたものだから、保護区同士をつなぐ野生動物の通り道になってるんだ。大きな哺乳類は柵の外の緑を利用するだけだけど鳥はああやって堂々と入ってくるよ』
 孤立した保護区をつなげる。それは限られた保護区に生きる野生動物にとって非常に重要なことだ。小さく不安定で画一的な集団が大きく安定した多様な集団になり、生き延びられる可能性がそれだけ増す。
『素晴らしいです』
 大型恐竜の飼育施設が野生動物保全に貢献するという仕組みができている。
 恐竜が絶滅したのは人間のせいではない。その恐竜を見るための施設が今の生き物を押しのけてはいけないのだ。
『この素晴らしい側面を私は知りませんでした。飼育施設としての内容ばかり見ていて……』
『いやあ、この良さを分かってくれるだけで充分さ。それに、あなたは本当に熱心だった。……そろそろ時間だし、カメラをこっちに戻していいかな』
『はい。ジェフさんとアニタさん、車両とカメラのご案内ありがとうございました』
 すでにすっかり園長ではなく私がこっちを仕切ってしまっていた。
 映像が途切れたのでゴーグルを外す。一時間ぶりくらいに視界が事務所に戻って、妙な浮遊感がするとともに目の疲れに気付いた。
 パソコンのディスプレイには再びあちらのリーダーら数人が映った。
『本当に熱心なチームでよかったよ。エウロパサウルスの実績もあるみたいだし』
 あの飼育マニュアルのことがこんなところに知れ渡っていた。園長はにやにやするばかりだった。
『僕らはディプロドクスを取ってカマラサウルスやブラキオサウルスは諦めざるを得なかったからね。マクロナリアの研究はここでは進められないんだ』
 タンバティタニスとエウロパサウルス、それにディプロドクスの隣人であったカマラサウルスとブラキオサウルスはマクロナリアという同じグループに属する。
 ディプロドクスに加えてカマラサウルスや、ましてやさらに巨大なブラキオサウルスまで飼育することはほぼ不可能だろう。
『もしタムバタイタニスの飼育を初めてくれたら、竜脚類の世界を覗く大きな窓が開くことになる。頼もしい研究仲間になってくれることを期待してるよ』
『光栄です』
 こうして、初めての自然史動物園のバーチャル見学は円満に終わった。

 しかしタンバティタニスが再生されることに期待する人は増えてしまったではないか。
 パソコンに向かって今回の見学で分かったことをまとめながらも、この問題がとうとう国際化してしまったことに思考が引っ張られてたびたび手が止まった。
 まあ、エウロパサウルスに関して言えばもう向こうのリーダーの言うとおり「研究仲間」なのだし。こう考えて誤魔化し、作業を進める。
 なんとか忘れないうちに記録を書き上げ、向こうに送るお礼と追加質問のメールに取りかかろうというところで、事務所に大林さんが入ってきた。
 こちらを見るなり笑みを浮かべて近付いてくる。
「ねえ。今朝の見学、すっごいいいもの見れたね」
「ええ、まあ」
 それは大林さんの言うとおりなのだが、
「もしかしてベニヘラサギのこともですか?」
 私がそう聞くと大林さんは一瞬目を丸くして、それからその笑顔をなぜだか照れくさそうなものに変えるばかりだった。
「まあ飼育施設が野生動物にも良いものであるというのはこれから必須になるかもしれませんね。ところで、大林さんのほうから何かあちらに聞きたいことなどは」
「あ、じゃあ、ティラノサウルスの見学も早いとこお願いします、ってだけ」
「念押ししておきます」
 ティラノサウルス類の歯も篠山層群から発見されているので関係ないわけでもなかった。
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