Lv100第六十九話
「囚牛 -美佐知とスーリン(ひらまきパークその三)-」
登場古生物解説(別窓)
 小さい頃、毎週必ず図書館に通って動物の本ならなんでも読んだ。その中には古い恐竜の絵本も混ざっていた。
 私が生まれるよりさらにだいぶ前の本だと、種類の決まっていない、なにかのっぺりした恐竜が現れることもあった。
 しかし種類が分からなかったのはそのときの話で、今なら断言できる。
 小さな頭、半端に長い首と大きな胴体、短い手とどっしりした脚、大きな尻尾。あの姿は、ルーフェンゴサウルスだ。
 恐竜が本格的に繁栄し始めた頃に現れた、派手な角や棘も、凝ったクチバシや羽毛もない、ものすごく大きいというわけでもない、あっさりとした姿の植物食恐竜。
 といっても、本物のルーフェンゴサウルスは絵本のように街に現れてアイスクリームを食べるなど考えられない。絵本に出てくるのよりずっと繊細で、保守的で、厳しくあたりを見張る生き物だ。
 今の私は日々そのことを痛感する、飼育員の立場にある。

 ひらまきパークに二つあるルーフェンゴサウルスの獣舎に、朝から早速強烈な日差しが降り注いでくる。
 彼らの全長は六メートル以上、背伸びをすれば高さは四メートル近くなるだけに、どちらの獣舎もかなり大きい。
 しかし、換気能力が高く、木陰や池にも近いほうに、三頭のうちの一頭がこの前から陣取っている。
 私たち飼育員はなるべく音を立てず、入り口から影を作らず、裏からそっと様子をうかがわなければならない。万が一に備えてのことだ。
 手元の業務用スマホに表示される温度、湿度とも問題ない。異臭や異音もしない。
 観察窓兼換気口から見えるのは、まず土の山。そして、周囲ににらみをきかせているここの女王様の姿だ。
 スーリン、通称スー。二頭いるメスのうち体格の良いほうである。
 ひょろりと長い首がすみやかにこちらを向くと、イグアナによく似たシンプルな頭、金色をした真ん丸な目が現れる。
 真剣になった鳥や爬虫類に特有の眼光が、私を射抜いてひるませる。
 慣れた無害な存在だと認識したのだろう、またすぐにそっぽを向く。
 獣舎の真ん中には土やらシダの落ち葉やらでできた小山が横たわっている。これは彼女自身が、短い手に備わった親指の大きな爪や、巨体を支えるたくましい脚で積み上げたもの。
 彼女がここにこだわる理由、卵の埋まった巣だ。
 開園前から目を光らせて巣を守るスーの巨体には気迫がみなぎっている。
 大きな恐竜が殺気立っていれば慎重に扱わざるを得ない。これがスーを特別扱いする一つ目の理由。
 二つ目の理由は、彼女を刺激して暴れさせ、うっかり卵が割れてしまったら取り返しがつかない……というものではあるのだが。
 放飼場を挟んで反対側にはもう一つの獣舎がある。そちらにはオスのタイことタイシャンと、スーの妹分のメイことメイシャンがいる。
 本当なら卵の父親はタイであるべきなのだが、オス同士の争いを経験していないせいだろうか、気の弱すぎるタイが荒っぽいスーに近寄っているところを誰も見ていない。
 つまり、巣の中の卵は無精卵としか考えられないのだ。

「スーちゃんの卵、本当に無精卵だとみんな中国に返されちゃうんでしょ?有精卵だといいねえ」
「ええ、まあ、一応来年まで余裕はあるっていうことなんですけれども」
 農協の人とそんな話をしながら、曲がったキュウリや凹んだナスといった、売り物にならない野菜の詰まった段ボールをいくつも受け取る。
 三頭のルーフェンゴサウルスは、この動物園にいる化石哺乳類の共同研究が縁になって中国の研究機関から預けられたものだ。
 こちらでの成果、特に繁殖の成果が思わしくなければ、どうするかは向こうの判断にゆだねられる。
 フードロス対策を兼ねて餌の調達に協力してくれる地元の農家の人達も、ルーフェンゴサウルス達が帰ってしまうかもしれないのをしきりに気にしてくれていた。気にしてくれてだけはいたのだが。
 農協の軽トラが去るのを見計らって、食糧庫にやや小柄な人影が現れた。
 短い髪や作業服と、私達飼育員のように作業しやすいスタイルだが、彼女は研究者であると同時に獣医である。小森さんという。
「こちらに」
「はい」
 野菜の箱を受け取りながら品目ごとの重さをメモした紙を渡した。すると小森さんは、キュウリとナスの箱を一つずつ持ち上げてどかし、
「こんなところですかね」
 とつぶやく。
 この二箱はルーフェンゴサウルスの口には入らず、化石哺乳類達のものとなる。全てルーフェンゴサウルスに与えてはカリウム過多を招く恐れがあるのだ。
 地元の野菜に自信を持って分けてくれる皆さんに対して薄情かもしれない。先程など三頭の行く末を案じる言葉をかけてくれたものだし。
 しかし、小森さんはどけたほうの箱の重さを改めて量り、思ったとおりとうなづきながら、目をらんらんと輝かせている。
 それがなんだか巣を守るスーの目と似ている気さえして、薄情などとは決して言えないのだった。
「痛まないうちに作業しましょう」
「あっ、はい」
 段ボールから出して今日与える分を切り分け、残りも冷蔵庫に収めなければ、真夏の暑さにすぐやられてしまいそうだ。
 巣の中の無精卵も早く取り除かなければ腐ってしまうのだろうか。小森さんにはそう言い出す気配はなかった。

 タイとメイが使っているほうの獣舎の近くには、鉄パイプで出来たヤシのようなものが立っている。
 さっき処理した野菜を横枝に突き刺してやれば、まるで木から若い芽や葉を摘み取るようにして自然な食事ができるというわけだ。
 といっても食事量の全てがこの餌台でまかなえるわけではなく、米ぬかを主にした配合飼料を主食として餌かごに盛っておくのだが。
 餌の用意と安全確認ができたらもう開園時間だ。
 両方の獣舎の自動扉を開けてやってもスーは出てこない。タイとメイにとっても最近の日本の夏はさすがに暑すぎるのか足取りは重いが、餌場を目指してゆっくりと現れてきた。
 薄い青緑をした、鼻先から尾の先までなだらかに六メートルも続く体が、夏の日差しの中をそろりと進んでくる。あっさりした姿をしてはいても、そこそこ大きな恐竜だ。
 緑に囲まれた臨場感あふれる放飼場……というわけでもなく、堀で仕切られたそっけない砂地なのが惜しいといえば惜しい。
 タイは目線を餌台の上に向けて近付く。
 そしてついに餌台に辿り着くと、思い切り上体を起こす。短いとはいえたくましい両手が餌台の幹をはさむようにつかみ、太い爪がガチリと音を立てる。
 タイの首は高々と支えられ、頭がキュウリに届く。まるで笑みを浮かべているかにも見える。
 真一文字の口が開いてキュウリをくわえ、小気味良い音を立ててちぎり取った。
 ただ私が見るべきなのは食いっぷりだけではない。
 それも健康の証拠だから見逃せないのだが、一瞬見える口の中に異状がないか、それに腋や腹、二の腕、顎の裏などに怪我や病気がないかも見なければ。
 普段体を水平にして歩いたり寝そべったりしているときにはよく見えないし、哺乳類と違って「見せてくれたらおやつをあげる」という約束を覚えたりはしないのだから。
 以前、観察結果を小森さんに伝えるときに「メイの右腋を見逃した」と伝えたことがある。
 すると小森さんは、深刻な顔でメイのそばに貼り付いたまま、放飼場のそばから小一時間は動かなくなってしまったのだ。
 そこまで重大なことだったのか……、小森さんが真剣すぎるのか。

 さて、立ち上がって夏野菜をかじるタイを見つめるのは私だけではない。
 少し下がったところにはスケッチブックを手にした女性が立っている。タイの姿を見上げては素早く鉛筆を動かし、また視線をタイに戻す。
 彼女は毎週こうしてルーフェンゴサウルスを描きに来てくれるのだ。それ自体はけっこうなことだと思うのだが。
 以前、彼女のスケッチブックを見せてもらったことがある。
 全ページのうち半分はルーフェンゴサウルスそのものではなく、ルーフェンゴサウルスをモデルとして翼や角を付けたドラゴンの絵で占められていた。彼女はあくまでファンタジー世界のドラゴンのモデルとしてルーフェンゴサウルスに着目しているのだ。
 確かに、ルーフェンゴサウルスの長い首や小さい頭、強い爪は、やや古典的な西洋竜の姿に合致してはいる。
 しかしスケッチブックの中のドラゴンの、猛禽のような指、長い牙は、ルーフェンゴサウルスとはかなり異なっていた。
 特に三角に吊り上がった目には、形相の割にかえって実物ほどの鋭さを感じないのだった。
 彼女はルーフェンゴサウルスを通して何か別のものを見ているだけなのだった。小森さんがこの絵を見たら残念がるだろうなと思ったものだ。
 それに、ルーフェンゴサウルスはそんな頼もしくて不死身の生き物ではない。
 スーはタイが気に入らないようで退けているが、メイはメイで、タイから離れて餌かごから配合飼料を食べている。タイとあまり関わろうとしないのだ。
 スーにしても、タイやメイにしても、何かにこだわったり気が引けたりする小心な生き物であると言わざるを得ない。

 あまりに暑いのでタイとメイも午後三時ごろには獣舎に戻っていき、放飼場には二頭の糞だけが残された。
 獣舎の門を閉じたら放飼場の片付けを行うのだが、糞に対して作業を行うのは小森さんなのだ。
 まず小さな機械にコードでつながっている金属棒を刺して、内部の温度を測定する。炎天下ではあるが内部の温度変化はゆっくりなので体温測定の代わりになる。
 スコップで糞をすくい上げて猫車に載せるが、ただそのまま片付けるのではなく、専用の作業場でバラバラに崩して、異物や未消化物がないか調べたり、ホルモンを分析したりと、ルーフェンゴサウルスの健康管理に役立つ情報は何でも読み尽くすのだ。
 そんな重要なものを拾う小森さんはやはり活き活きとしているように見え、とても動物の糞に向けるものとは思えない目をしている。ただの「片付けをしている作業者」とは一線を画している。

 当たり前だがその間、私達飼育員にもやるべき作業がある。もう一人の今日の担当、山口さんと手分けして見ていく。
 放飼場の中に食べられない雑草は生えていないか、異物は落ちていないか。今とは別の植物が栄えていた時代のもののこと、おかしなものを飲み込んだら今の動物よりずっと問題になる。
 それからやはり、スーの獣舎に異状がないかどうか。
 いくら蒸し暑い季節でも獣舎の中が湿って不潔になることは許されない。スーのいるほうは余計にそうなのだが。
 私達が風の吹き込む大きな扉を覗くと、すぐにスーの視線が浴びせられる。
 私はしがない飼育員ですよ。あなた様のお卵にちょっかいを出すなんてそんなまさか。私がスーを見張ったり、鉄柵に据え付けられた餌箱にキュウリを入れてスーの気を引いたりしているうちに、山口さんは隅をそっと通りつつ、食べかすや散らばった巣材など欠かさず拾い集めていく。
 フッ、と鼻を強く鳴らされ、一旦後ろに下がってスーから距離を取る。しかし作業している山口さんはスーに注目されていない。
 糞だけは獣舎の外でするようで、それは助かる。
 万が一のことがあるので卵に悪影響を及ぼさない環境を確保しなければならない。
 そう、万が一だ。なにしろ本当に誰も、タイとスーの交尾どころかタイがスーにまともに近付いたところすら見ていないのだから……。

「スーの様子はどうでしたか」
 私が清掃を終えるタイミングを見計らっていたかのように、すぐさま小森さんから声をかけられた。
「あっ、異状ないです」
 山口さんが簡潔に答えてしまったが、私には、これでは小森さんは小さくうなづくだけでこちらを見つめ続けるのが分かっていた。
 異状がなくて、では具体的にどうだったのか説明を求めているのだ。私は山口さんが付けていた観察記録をそれとなく山口さんの手から取った。
「えー、気温と湿度は……、で私達が獣舎に入ったときにはこちらを見るだけでした。それで……」
 観察記録にすでに付けてある内容を読んで聞かせると、小森さんは熱心に聞き入り、それが終わると
「ありがとうございます」
 丁寧に頭を下げるのだった。

「小森さんって、まめなかたですね。記録はすぐ読めるようになるのに」
 事務所で観察記録をパソコンに打ち込んでいる私に、作業後で休憩している山口さんがぽつりと声をかけてきた。
「スーのことが、というか、ルーフェンゴサウルスのことが本当に心配みたいですね」
 そう答えたが、山口さんは引っかかりのある顔をしていた。
「でも、卵も多分無精卵ですし……、いつかは、三頭とも」
「そうなんですけど、ね」
 来てしまう時を思って、疲れている私達はそれ以上口が開けなかった。
 作業が終わってすぐに小森さんが記録を聞いてきたのは、ただ早く知りたかったからだ。小森さんは本当にルーフェンゴサウルスのことを想っている。
 しかし、実のところ私も山口さんと一緒で、ルーフェンゴサウルス達はいずれここを発ってしまうものと認識していた。
 あまり思い入れを深めるとそのときにつらくなるだけではないだろうか。
 あんなに動物のことを考えられる人が真剣になるほど、ルーフェンゴサウルスをここにとどめることに意義があるんだろうか。ある決まった動物種がある決まった動物園にい続ける理由となると、何かとりとめもないことのように思えるが……。
 中国の研究機関と縁があって。……二十年前のことをそのままにしておく理由は?
 ここで行っている研究をもっと進めるため。……それこそ、繁殖も上手くいっているあちらで行うべきでは?
 ここを訪れる市民への、恐竜についての教育を行うため。……ルーフェンゴサウルスが恐竜の代表になりうるのか?そういう展示ができているか?
 フードロス問題の啓発のため。……これが一番実態に即していない。栄養バランスのためと言って、結局受け取った野菜をルーフェンゴサウルスだけで食べきれなくしている。
 それから、もう一つ重大だと言われていることがあるのだが。それこそ別に……、
 暑さと疲れで考えがまとまらない。決め手となるものが今の私には見付けられないようだ。

「お二人、すみません。気になることがありまして」
 突然事務室のドアが開いて小森さんが現れた。
 私はとっさに振り返るが、山口さんがリアクションを取った気配がない。
「山口さんはだいぶお疲れのようですね。熱中症かもしれませんから、これを」
 そう言って小森さんはそばにあった冷蔵庫を素早く開け、スポーツドリンクを山口さんに手渡した。
「久喜さんは私と来てください。スーの獣舎です」
 そうなると思ってすでに動いていた。
「それなら、準備するものがありますので」

「スーの獣舎から異臭がするんです」
 すでに西日が差す時間となった園内を移動する間に、小森さんから事情の説明を聞いていた。
「異臭?」
「はい、何か腐っているような」
 もしや、ついに卵が腐り始めてしまったか。
 不安が胸をよぎったような気がしたが、本当に私はそれを不安に思っているだろうか。スーの卵が無精卵であることを私はほぼ確信していた。
 不安なことがあるとすれば、本当に卵が腐ってしまったら小森さんがどう思うか、だ。
 二人で獣舎の入り口からそっと顔を出し、暗い室内の匂いを嗅いでみた。
「かなり薄い匂いではあったのですが」
 よく吸い込んでみると、確かに何か妙な匂いがした。
 しかし、いかにも卵が腐ったと思わせる、いわゆる硫黄臭ではなかった。どちらかというと酸い匂いだ。
「分かりましたか」
「はい」
「私が匂いの元を探ります。その間、スーを見張ってくださいますか」
 先程掃除をしたときと同じ役目だ。ただし、スーの気を引くためであっても今日の定量に達してしまったキュウリを再びあげることは避けるべきだ。
 そこで私が用意したのは、
「なるほど、コゴミですか。問題ないでしょう」
 ルーフェンゴサウルスが生息していた頃に繁茂し、おそらく重要な主食のひとつであったシダ植物。その現生種のうち生で食べても問題ない山菜であるコゴミを、副食のひとつとして栽培してあるのだ。
 私は一束のコゴミを頭上に掲げ、獣舎にゆっくり進んでいく。
 即座にスーの右目が暗闇から現れ、こちらをにらみつける。コゴミに興味を持たれなかったら私も小森さんも単なる侵入者扱いだ。しかしコゴミがそこまでスーの大好物だったわけでもない。
 カクッ、カクッと頭を向き変え、左目で、また再び右目でこちらを見据える。私は今、スーに厳しく審査されている。
 するとスーは頭を下げ、餌箱を口先で小突いてガツンと音を立てた。
 早くあげないとかえって怒られる。私はすぐに餌箱のこちら側に向いた蓋を開きコゴミを放り込んだ。
 スーは餌箱に顔を突っ込み、コゴミの束をつついてほぐすと、そのうちの一本をくわえ上げてみせた。
 もう大丈夫だ。私の合図で小森さんが獣舎の通路へと進んでいく。
 小森さんが匂いの元を探している間、私はただスーをじっと観察していればよい。そうすればスーはコゴミをつまみつつ私のことばかり気にして、小森さんを怪しむ余裕はないはずだ。
 しかし先程の匂いはかなり弱かった。あれでは見付かるのにだいぶ時間がかかるかもしれない。
 スーが食べ終えるまでに匂いの元が取り除けなければ、いやせめて突き止められなければ、もう穏便にスーの気を引き続ける手段がない。
 スーがコゴミを七割ばかり食べ終えたところだった。
 小森さんが何か入ったビニール袋を持って戻ってきた。幸い、匂いの元は拾えるところに落ちていたようだ。
 何か事故がないように念のため、スーがコゴミを完全に食べ終わるまで見届けてから、そっと二人で獣舎を離れた。

 ビニール袋に入っていたのは、すっかりいたんでひどい匂いになったキュウリのかけらだった。
「食べ散らかしを見逃していたようです。うかつでしたね」
 そうは言いながらも小森さんの顔には安堵の色が浮かんでいた……、思っていたのと少し違う理由で。
「巣に使われているシダが腐ったのではなくて、よかったです」
 私が、卵が腐ったのではと考えていたのよりずっと綿密で、前向きで、スーのことを想った言葉だった。
「どうして、」
 先を行っていた小森さんが立ち止まって振り向く。
「どうして、そんなにルーフェンゴサウルスのことを想えるんでしょうか」
 小森さんの目が泳いだように見えた。
「久喜さんは、タンバティタニスの計画のことはもちろんご存知ですよね」
「あ、はい。それはもちろん、そうなんですけど」
 タンバティタニス。またの名を丹波竜。
 ルーフェンゴサウルスの遠縁に当たる国内最大の恐竜だが、全長は十四メートルほどと万全の環境が整えば飼育できないわけではない大きさだ。
 タンバティタニスはまだ化石から再生されたことがない。しかし今後の展開次第では、タンバティタニスを飼育する施設が日本のどこかに作れるのではと期待されている。
「タンバティタニスの再生飼育を目指して、国内で少しでも竜脚形類のデータや実績を集める必要があるわけですが」
「そうなんですけど、それこそアマルガサウルスとかエウロパサウルスとかと違って、ルーフェンゴサウルスは重要じゃないのでは……」
 データ取りのためならもっと適任の恐竜がすでに国内にいる。
 時代と大きさはアマルガサウルスのほうがタンバティタニスにずっと近いし、エウロパサウルスはタンバティタニスにかなり近縁な上に飼育が普及していて、生理などのデータの有用さはルーフェンゴサウルスとは比べ物にならない。
 もはや時代も大きさも違う遠い親戚にすぎない、繁殖実績もないルーフェンゴサウルスがタンバティタニスの計画に有効な段階はとっくに過ぎている……ということに、
「小森さんなら、気付かないわけでは」
 少しきついことを言ってしまったか。小森さんは一瞬目を伏せた。
「そうですね、今のはあくまでオフィシャルな建前です。私がルーフェンゴサウルスに力を入れるのは、」
 小森さんは両手を腰に当て、またあの目をしてみせた。
「単に、私がルーフェンゴサウルスのことを知りたいからです」
 巣を守るスーによく似た、真っ直ぐに輝く瞳だ。
「ルーフェンゴサウルスは本当に珍しい恐竜なんです。日本でここにしかいないとかいう問題でもなくて、ジュラ紀前期で、基盤的な竜脚形類で、その中では大型で……、そういう恐竜の中で再生されているもの自体が、他にほとんどいないんです。久喜さんは、ルーフェンゴサウルスのことを知りたいとは思わないですか」
 真っ直ぐに問われれば、知りたくないわけではないのだが。
「た、多分、小森さんとは違った意味でなら」
 何を考えているのか、望みや不満は何なのか、という飼育動物に感じるもどかしさのことを言っているのではないのだ、小森さんは。
 小森さんの頬が少しだけ緩んだ。呆れや嘲笑ではなく、あなたはそれでもいいと言ってくれているように見えた。
「それに、ルーフェンゴサウルスのことをきちんと見ているのは、私達だけではないですから」
 そう言うと小森さんは急にポケットからスマホを取り出し、画面をこちらに見せてきた。
「ほら、こんなに見事な絵を描けるくらい見ているかたもいらっしゃるんですよ」
 スマホのロック画面の背景は、ルーフェンゴサウルスのイラストだった。
 全身にすらりと一本筋が通って体の隅々にまで精気が満ちるような立ち姿だ。体型やポーズは正確に再現され、細部の特徴は全て把握されている。
 何より驚くのは、その絵のタッチに確かに見覚えがあることだった。
 例の、毎週来ている画家さんのものである。
 しかしながら、以前見たときと比べて見違えるようにルーフェンゴサウルスらしくなっているのだった。
 小森さんが見たら残念がるだろうなどと昼に思ったのは大間違いだ。これなら小森さんのお気に入りになるだろうと納得する出来栄えであった。

 数日後。
 あの見事なルーフェンゴサウルスを描いた画家さんがまたやって来ていた。
 タイとメイが朝の食事にひととおり満足してのんびりと過ごし始めたところで、だいぶ久しぶりに彼女に声をかけてみた。
「よろしければ、またスケッチブックを見せてもらっても」
「あっ、どうぞどうぞ!」
 長いこと彼女のことをろくに省みていなかったにもかかわらず、快くスケッチブックを渡してくれた。
 そっと開いてみると、そこには堂々としたタイがいた。
 餌台からキュウリをちぎり取るあの立ち姿がざっくりと、しかし筋肉や骨格を捉えた線でスケッチされている。その周りには手や目や口が、大きめの鱗一つひとつとともに細かい線で描かれている。ディティールを把握するための練習だ。
 そんな調子で、ルーフェンゴサウルスの見事なスケッチが何枚も続いていた。表に出ているタイやメイだけでなく、スーとその巣も見える。小森さんのルーフェンゴサウルスを知りたいという気持ちと彼女の気持ちはとても近いだろう。
 そのうち、ちょっと意外なものに出会った。
 ルーフェンゴサウルスを基にした例のドラゴンである。ただし、このドラゴンも以前とはまるで違っていた。
 まず、ドラゴンの周りにはシダの巨木が立ち並んでいる。ルーフェンゴサウルスが生息していた当時を思わせる情景だ。
 ドラゴンの翼の根元にはしっかりと肩甲骨のふくらみがあり、構造を感じさせる。
 角は後頭部ではなく目の前上方にあるが……、確かにルーフェンゴサウルスの同じ位置にも出っ張りがある。荒武者の兜飾りを思わせるアレンジだ。手はルーフェンゴサウルスそのものである。
 何より、ドラゴンはあの真ん丸い金色の目をして……、塚状の巣を守るべく、周囲を見張っている。
 もう取って付けたような怪物ではない。スーのように命を繋ぐべく戦う生き物だ。
「とってもいいものを見せていただきました。ありがとうございます」
「ああーっ、よかったです」
 私は深く頭を下げ、スケッチブックを丁寧に返した。
 私の中には小森さんや画家さんと同じものはないかもしれない。それでも、当面この人達のためにやっていこうと思えるようにはなった。
 少しだけ暑さが和らいできた。
 スーの卵からは、依然腐敗臭はしない。
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