Lv100第六十二話
「ネクロマンサー -裕香とオウドウリ1号-」
登場古生物解説(別窓)
 犬吠埼の春は早い。灯台に寄り添う新しい観光施設では、私達職員はもうとっくに春の装いになっていた。
 ここでの私の役目は、裏の工房で食用アンモナイトの殻を削って、お土産や展示用の工芸品に仕上げることだ。
 銚子ジオパークを紹介するパネルが壁に並んでいる。この房総半島の東端は、関東全体から孤立した古い岩でできている。
 そのそばの窓際。
 趣きのある木の棚の上で、私の作品が日の光を受けて輝いている。
 平日、数少ないお客さんの驚く顔がじっくり見られるときだった。
 女性のお客さんが、目を丸くして作品を見てくださっている。アンモナイトの殻のこんな姿は初めて見たのだろう。
 目立つところにあるのは、おなじみの渦巻き型を残した置物。
 ただし、ぴかぴかに磨いて緑銀の光沢を出したものや、一部削り取って、中を細かく仕切る隔壁を見せたものだ。
 外側をすっかり削り落として、隔壁だけにしたものもある。
 隔壁は波打ち、その波は外に向かうにつれて枝分かれする。そんな隔壁が並ぶと、まるでもじゃもじゃとした不思議な草にも見える。アンモナイトの古名、菊石とはよく言ったものだ。
 その女性が特に時間をかけて見たのは、やはり手に取りやすいアクセサリー類だった。
 ピアスやネックレスに使っているのは磨いた殻だけではない。むしろ、隔壁を使うことが多い。
 あのサニーレタスのような隔壁を取り出し、磨き上げたものだ。親指の先ほどの半楕円の中で、真珠に負けない輝きが賑やかに躍る。
 女性はジオパークのパネルを眺めていた男性と合流し、やや小さめのピアスを一つ買っていってくれた。
 その後、お客さんの姿がしばらくないうちに予定の時刻になった。
 ここの皆で世話しているアンモナイト達の餌の時間である。
 喫茶コーナーが持ち場の奈央が先に動いていた。手には小皿とポリ容器を持っている。
「裕香オキアミね」
「くっ……楽なほうを取ったな」
「用意してやったんじゃい」
 小皿には丸のままのオキアミと、頭と尾に分かれたオキアミが別々に盛られている。確かにこれは奈央が準備してくれたものだが。
 少し奥まった、窓の光が届かない廊下へ。
 壁には五つの水槽が煌々と照らされて並んでいる。
 そこに住むのは、灯台や海沿いの道の下に眠っていた銚子産のアンモナイトや、港で養殖された食用アンモナイトだ。
 オキアミをあげるのは手前から一番目と四番目の水槽だ。脚立に乗り、水槽の上の、実は蓋にすぎない壁を外す。
 手の平から余るほどの大きさがある、つるりとした碁斑模様の灰色の殻が目立つ。今いる中で一番大きい、プゾシアである。
 二匹いるうちの一匹、プゾシア一号が手前にやってきた。餌に対する察しはかなり良い。
 オキアミを棒の先に刺し、紋甲イカによく似た顔の前に差し出す。一号は十本の腕を繰り出してそれを器用にからめ取る。
 食べさせたい私と、食べたい一号。つかの間の意気投合。
 プゾシア二号にもオキアミをあげると、より小さいアンモナイトの番だ。
 二本の指を広げて挟むくらいの、ホルコディスクスが三匹。
 白地の殻にワインレッドの盛り上がった細い筋が、中心から外へ無数に走る。筋の中には枝分かれして広がるものもあり、力強く見える。
 プゾシア達の食べているオキアミの匂いを察して、活発に泳いでいる。皆に素早く与えなければ。
 一度食べ始めると噛み締めるのに集中して動かなくなるのはありがたい。誰にあげたかが一目瞭然だ。
 間違えないようにしなければならないのが、この水槽では最後の一種類、ネオシレシテスだ。
 大きさはホルコディスクスとさして変わらないのに殻の巻く数が多く、その分殻の口が小さい。殻全体がレモン色と黒の渦巻き模様になっていてまぶしい。
 殻の口が小さいということは、頭と口も小さいということだ。
 棒の先に、今度は半分に分けたオキアミを刺してやる。食べる量はホルコディスクスと変わらないので、頭と尾の両方だ。
 殻の割に体が小さいせいで身動きも遅い。取りに来るのを気長に待たないといけない。
 四番目の水槽、食用アンモナイトの片割れであるダクティリオセラスも同様だ。これは大きさも少し小さいので尾だけをあげる。
 近くで養殖されているからと八匹もいるから、大変な手間である。養殖場ではもっと大雑把なのに。
 奈央の受け持ったプランクトンを与えるのは、区別や忍耐を必要としない。
 どの種類であっても、顔の前にプランクトンの混ざった水をピペットで吹き付けてやればいいのだ。
 親指の先ほどのプルケリア、マーガレットの花によく似ている。
 プゾシアに次いで大きなケロニセラス、ごつごつと波打ったワイルドな形をして、黒の水玉がたくましく見える。
 五番目の水槽にいるペリスフィンクテスは、食用アンモナイトの代表格だ。
 どれも腕を伸ばしてがっついたりはしない。腕を伸ばしたところでプランクトンなど掴めるものでもない。
 代わりに、腕の間で大きな口をしゃかしゃか開け閉めしている。
 イカと同じカラストンビがあるものの、カラスやトンビとは程遠い、平たいシャベルのようなクチバシを隠し持っているのだ。
 この動きは、この間まで三番目の水槽にいた、ここの王様のものが一番見やすかった。
 オウドウリセラス。一旦普通に巻いて急に直線になりまた巻いて終わることで、数字の9の形になった、不思議なアンモナイト。しかもその殻の大きさは男性の靴ほどもあった。
 厳密には銚子と関係のない種類ではあった。本当に銚子で見付かったのは、とっくに餌やりを終えた奈央が磨いている、もっと大きい殻のものだ。
 県立博物館で育てられたオーストラリセラスである。靴どころか、丸まったネコほどもある。下のフック部分にはごつごつとした山が連なり、アイボリーとチョコレート色の鱗模様が走る。
「オーストさんもー、いつかこっちに来れるといいねえー」
 奈央は歌うようにつぶやくが、いくらオーストラリセラスがあまり動かない種類だとはいえ、ここの水槽では狭すぎるので殻だけ展示されているのだ。
 私も餌やりを終え、水槽の向かいの壁にかけてある自分の作品からほこりを落としておくことにした。
 これも材料はペリスフィンクテスだ。左右で半分に切って、隔壁の並んだ中を見せ、周りにも別の殻から丁寧に取り出した隔壁をぐるりと並べたものだ。全体の土台は、海の波を思わせるガラス板。
「おーおー、バズったのがそんなに自慢かね」
「そらまあ、これのおかげで作家らしくなれたわけだし?」
 先日この作品の写真を短文SNSに載せたところ思わぬ評判を呼び、アンモナイトの殻の美しさや不思議さを知ったという声も多数寄せられた。
 のみならず、作品の注文まで増えてきたのだ。
 地元のお土産物を作るだけではなく、全国の人達を相手にする工芸作家として認められつつある。鼻も高くなろうというものだ。
 ここの作業も終わるというところで、この廊下に入ってくる人影があった。平日夕方になって珍しくお客さんかと思ったが、動きやすそうな格好の中年男性が一人。
「お久しぶりです」
「あれ?川村先生」
 県立博物館の学芸員さんである。両手に段ボール箱を大事そうに抱えている。何かこう、見覚えのある大きさなのだが……。
「今日はこれを、浜口さんに託そうと思いまして」
 川村先生がそっと開いた中には、ああ、やっぱり、そうだった。
 こうやって見るのはおかしな感じがするが……。
「オウドウリ一号……」
「浜口さんなら、この殻を犬吠埼の皆さんが喜ぶように活かせると思いまして」
 ここにいたオウドウリセラスのうち大きいメスのほう、オウドウリ一号の殻が、くしゃくしゃの新聞紙の上に横たわっていた。
 緑色の細かな筋が9の字の殻を何千も横切る。オーストラリセラスには負けるがフックの表面に走る山並みがたくましい。見間違えようもなくあのオウドウリ一号の殻だった。
 そばに添えられている二枚貝みたいなものはなんだろう。いや、これももっと小さいものはしょっちゅう見ている。オウドウリ一号のクチバシだ。
「えっ、標本として残すんじゃあ」
「身のほうはそうしてあります。それと二号の殻も。オウドウリセラスでいえばうちで育ったのの殻は他にもありますけど、ここで育ったものの殻はここのためにということになりましてね」
 川村先生が箱をおもむろに突き出してくるので、私も受け取らざるを得なかった。
「よろしくお願いします」
「は、はい」
 そのまま、私は箱の中の殻から目が離せなくなった。
 奈央が川村先生にアンモナイトの様子を話し、川村先生から誉めてもらうのが聞こえた。
 やがて先生も帰るというので、慌てて顔を上げ、また下げて見送った。
 箱を持ったままの私に向かって奈央が一言。
「よかったじゃん。そんな良い殻自由にできて」
「いや!いやいや!」
 あまりに軽く言ってくれるものだ。こっちは白っぽいままの頭で反論をひねり出さねばならないのに。
「いつものは捨てる殻!ゼロ円工房!これ公共物!」
「これも飾っちゃったら公共物なんじゃないの?」
 奈央は壁の作品を指差した。
 確かに、私はあまり重く考えずに公共の展示物を生み出していたことになる。
 養殖されているペリスフィンクテスやダクティリオセラスを、私は平気で切り刻み、真っ二つにし、隔壁だけにさえしてきた。
 うろたえる私に、奈央はさらにたたみかける。
「養殖と同じで、よそから来た種類には変わりないんだし」
 そのとおり、オウドウリセラスの原産地はロシアだ。ここで見付かったプゾシアやホルコディスクスとは違う。
 しかし、それは私の気休めにはならなかった。
「養殖のもここで育ったからここのお土産になるわけで……、一号をここでみんなで育てたことには変わりないでしょ」
「そらそうだ」
 結局、その日は一号の殻をそっと工房に仕舞って終わった。

 どんなに厄介なときでも、自宅で飼っているほうのアンモナイトも世話をしなければならない。
 そう大きくはない水槽に三匹、なんとか全員手の平に収まりそうな大きさだ。
 ホプロスカフィテス。オウドウリセラスと同じ9の字型の仲間だが、ずっと詰まった形をしていて、フックが丸にくっついている。
 ころんとして可愛らしい形だ。のみならずとても優美な曲線で、これに惚れ込んで育ててきただけのことはある。
 丸の部分は平たいが、フックにさしかかると急に幅が大きくなる。縁に沿って二列のいぼが並び、繊細な筋が無数に走る。
 その殻の表面は、黒々としたものでしっかりと覆われている。殻を守る殻皮だ。
 三匹ともすっかり成長して、動きがずいぶん落ち着いてしまった。殻にまだフックがなかった頃はもう少し泳いでいたものだが。
 こうなると、ホプロスカフィテスの寿命はそう長くない。
 磨けば特に美しく輝く種類であることは分かっている。それを楽しみに育てていた面もある。
 ただ、三匹を守ってきた殻皮を、実際にはがすことを考えると……。
 三匹は今日もただ、殻口の奥にあるクチバシをぱくぱくさせている。黒く丸い目は殻からぴょこんと飛び出し、細く短い腕は殻口をイソギンチャクのように縁取る。
 とにかく、今日も餌をやらねばならない。
 職場で使っているのと同等のプランクトンを冷蔵庫から出して、ピペットで吸い上げる。
 それを水槽に差し込むと、ホプロスカフィテスはすぐに察知して、腕を広げて水を巻き込むように動かす。
 水を吹き付けると、クチバシの動きが激しくなる。水ごとプランクトンに食らいついている。
 そういえばオウドウリ一号の殻だけでなく、クチバシも受け取ったのだった。普段はあまり使わない部分だ。どうやって活かしたものか。
 任されたからには私が殻をなんとかしないといけないのだが、相手はあのオウドウリ一号である。
 思うに任せて切り刻んで、隔壁一枚しか残らない、などというわけにはいかない。

 翌日。
 工房に入って、ペリスフィンクテスで普段どおりのものを作ろうとしたのだが。
 二つに分けようと殻を治具に立てて、電動糸鋸の台に置く。そこで糸鋸を動かそうとしたところだった。
 その殻がものすごく大事で、おいそれと切ってはいけないものに思えてしまう。
 それならと、隔壁を取り出すために位置に当たりを付けて、切り進めるための穴を開けようとする。
 すると今度は、一番良い隔壁を砕いてしまうような気がする。
 そんな失敗は今までもあった。あったが、それを気楽に考えられなくなってしまった。
 私がわざわざ殻を切り刻むことにそこまで意味があるのだろうか。
 そもそも何も手を付けていない殻でも売り物にはなるはずなのだ。だから養殖場でも殻を割って身を取り出すのではなく、チューブを差し込んで空気圧で押し出すなどという手間をかける。
 揚げて砂糖をまぶす前のパンの耳を、無理を言ってただでもらっているようなものではないのか。
 ふらふらと工房から出て売り場に出ると、奈央が喫茶コーナーから離れてお土産のレジにいた。
 その向かいにはお客さんがいて、奈央の手から私の作品を受け取っている。奈央が私の代わりに対応してくれていたのだ。
 本当ならとっくに作品作りのノルマを終えて私がレジに立っているはずだったのに。
「あっ、あれ作者ですよ」
「どうもー」
 大して話もできず、ただ深々と頭を下げて礼を言うことしかできなかった。

 そんな調子で翌日もその翌日も、一点も作品が増やせず。
 次第に寝付けなくなり、朝も寝坊がちになっていった。
 そして一週間。
 大遅刻をかまして施設に着いた私の前に、非番のはずの奈央が、スクーターに乗りヘルメットをかぶって立ちはだかっていた。
「いや遅せえわ!」
 奈央は突然キレ気味になって持っていたほうのヘルメットを投げつけてきた。取れたからいいものの落としたら役立たずになるところだったのでは。知らんが。
「今日あんたは休みにしてもらったよ」
「なんで」
「乗れ」
「え?」
「乗れーーっ!!」
 有無を言わさない感じでスクーターの後部座席を指す。
 まるで訳が分からないまま、ヘルメットをかぶってスクーターにまたがり、奈央の背中にしがみついているしかなかった。
 スクーターはどうやら、灯台から離れて南へと駆けていくようだった。
 風は強いが、少しも冷たくなかった。
 この先どうなるのか、殻も切れないし行き先も分からないのに、春の風を堪能してなどいられなかったが。
 などと思っていたら、いくらも経たないうちに奈央はスクーターを停めてしまった。
「長崎鼻?」
 千葉県の東の果ては南北に切り落としたような形になっている。北側の角が犬吠埼、南側の角が長崎鼻である。
 犬吠埼は切り立った磯だが、長崎鼻は斜面になって海に向かう浜だ。犬吠埼灯台とは似ても似つかない、ただの筒みたいな塔が建っている。
「うおーっ!」
 ヘルメットを脱ぎスクーターから降りた奈央が、ものすごい勢いで走り出した。
 角張った石や貝殻がごろごろしているというのに、無茶苦茶な奴だ。私は足元に気を付けながら、ゆっくりついていくしかなかった。
「ほらーっ、この先太平洋しかないぞーっ」
 岬の先、岩に登った奈央が叫んでいる。
 あいつなりに私を元気付けようとしているのに違いない。ここで育った私が太平洋にそこまで何か思うことはないのだが。
 奈央にはゆっくり追いつけばいいか。
 それより、ここに連れてきてもらったこと自体は、良かったようだ。
 私は足元から大きな巻貝の殻を拾い上げた。
 ボウシュウボラ、なんともここにふさわしい名前の貝だ。
 側面がすっかり割れてなくなり、中の螺旋があらわになっている。
 かすかな筋が幾重にも走る。白とベージュだけのタペストリーが柱に巻き付けられている。地層みたいだ。
 波に揉まれて岩にぶつかり、割れてしまわなければ、これには出会えなかった。
 その貝殻を通して、私は北を見た。
 灯台が小さく見える。
 あれにも中がある。
 積年の足踏みに削られて凹んだ、コンクリートの螺旋階段。
 アンモナイトが育つたびに一枚ずつ付け足していった、隔壁に似ている。
 灯台は外から眺めているだけのものではない。
 そうだ、オウドウリ一号の、あの9の字型をした縦長の殻は、灯台と同じなのだ。
 私が、中に案内しなくては。
 長崎鼻を包む潮騒に奈央のわめく声が混じる。
 あいつの単純な思惑どおりというわけでもないが、とにかく礼を言いにそちらに足を進めた。

 翌日。
 しばらく工房にだけこもっていていいと言ってもらったので、夜のうちに書いておいたスケッチや作っておいた部品を手に工房に直行した。
 とにかくまずは真っ二つだ。オウドウリ一号の殻の中を丸っきり明らかにしてやらなくてはならない。
 電動糸鋸を丁寧に掃除して、前に切った殻の切り粉が全く残らないようにした。
 治具に立てた殻がどこにもぶつからないことを、何度も確認した。
 そして刃を、最も細かいものに交換した。こんなものを使えば普通は遅すぎて仕事にならないが、たった一つの殻が割れるよりましだ。
 スイッチオン、隔壁のないフック側から、ゆっくりと、本当にゆっくりと進める。
 鋸刃に切り飛ばされるほんの小さなかけらの一つひとつが見えるようだ。
 フック部分には隔壁は一つもない。抵抗なく進んでいく。
 それが終わるのに十分もかかり、隔壁のある円盤部分に。
 一度に刃のかかる点が何十にも増え、刃にかかる力は一変する。これに対応できなければ成功はない。
 大丈夫だ。基本的な構造はペリスフィンクテスと同じだ。
 ますます時間をかけて進め、巻きの中心を越える。抵抗が減ったら余計に慎重にならなくてはならない。
 力は半分になり、四分の一になり。
 とうとう、刃が殻を全て抜けた。
 オウドウリ一号の殻は完全に両断され、内部が初めて明らかになった。
 隔壁も、ごく細かいひだの数ヶ所を除いて割れていない。なんとかこれで大丈夫だ。
 9の字型のアンモナイトが長い住房……身の入る部分を持っているのは知っていたが、本当に巻いている部分にしか隔壁がなく、真っ直ぐになったところから殻口まで、まるでサックスのような空洞であった。
 途中からわずかに膨らんだり、フック部分に連なる山も内側に反映されていたり、表情豊かな空間がそこにあった。
 殻の中や糸鋸に切り粉が積もっている。これを全て集めた。
 そしてイタリック体の9に見える、少し傾いた向きに殻を並べた。左右ともに問題なしだ。
 電動リューターに研磨用バフを装着。
 内側の見える右半分の殻を取り、住房の中をそっと磨いた。薄い緑や紫の光が顔を出す。
 ただし、筋肉や外套膜の付着していた痕跡は残しておく。オウドウリ一号の生きた証が、真珠の艶めきに浮かび上がる。
 さらに、今までの普通の巻き方をしたアンモナイトならできなかったことが、この殻ならできる。
 リューターに特に小さなビットを装着。
 所定の向きにしたときに一番上に来る隔壁二つを選び出す。
 そして、その間を削り落とす。複雑に折り畳まれた隔壁に沿って、隔壁に傷を付けないように。
 切れ目が貫通し、そこで殻が前後二つに分かれた。巻き方がゆるくて外側の一周が内側の一周にくっついていないためだ。
 さらに両側の隔壁に残ったバリを落とす。これで、全体の姿は残したまま、隔壁の細かなうねりを見ることができる。
 殻の処理は終わった。オウドウリ一号の殻の内側に秘められた神秘が、明らかになった。
 この殻は安置して、ふさわしい土台の用意だ。
 ガラス板を、オウドウリ一号よりずっと大きく切り出す。
 このガラス板はただの平板ではない。波が左右に平行に走る波打ちガラスだ。
 海の波にも、地層にも見える。
 用意しておいた部品の一つを、画面右側に固定する。
 真鍮の線材をはんだ付けして作った、犬吠埼灯台の図面である。
 右半分は透視図になっている。この灯台もオウドウリ一号と同じく、中の螺旋階段と、光を海原に届けるレンズが見えるというわけだ。
 画面下には、同じく真鍮線で作った、この犬吠埼で見付かったアンモナイト達。プゾシア、ホルコディスクス、ネオシレシテス、プルケリア、ケロニセラス。
 そして上には、紺色のガラス板に彫り付け金色に塗った「犬吠埼菊石貝殻図絵 Ammonites raised in Inubousaki」の題字。
 画面中央に、オウドウリ一号をしっかりと固定。
 右半分を左に、中が見えるように。隔壁の間で切り離した部分を広く離し、断面の隔壁を見せる。
 右には左半分を、外側が見えるように。
 これで終わりではない。
 右半分の殻口に、用意してあった最後の部品をはめる。
 オウドウリ一号の軟体部を、真鍮線でかたどったものだ。
 生きていたときの姿は鮮明に覚えている。膜でつながった短い腕で殻口を縁取り、餌の時間になればそれを盛んに開け閉めしていた。
 目はひょっこりと殻口から飛び出していた。今は、灯台のレンズの中心にはめたのと同じ、ソーダ色のビー玉になっている。
 餌を吸い込むシャベルのようなクチバシも、ちゃんと固定してある。私達はこれをめがけてピペットを差し込み、水を吹き付けていたのだ。
 涙を吹いて、最後の仕上げへ。
 最初に両断したときに出た切り粉と、アクリル絵の具用のジェルをよく混ぜ合わせる。切り粉に真珠の輝きが戻ってくる。
 そして、画面左上から殻口に向かって、平筆で塗り付ける。
 切り粉はジェルの水で躍り、プランクトンになる。
 それを真鍮の体になったオウドウリ一号が、クチバシいっぱいに吸い込むのだ。
 殻の中の神秘。水槽での暮らしぶり。犬吠埼との結び付き。
 私なりにオウドウリ一号のことを伝えきれるものが出来上がったと思う。

 ケースに収めて、施設の壁にしっかりと固定。
 日差しがたっぷりとあり、作品が最高に綺麗に見える日に、お披露目が行われた。
 奈央も、施設のみんなも、食用アンモナイトの養殖業者の皆さんも、それに県立博物館の川村さん達も、オウドウリ一号の新しい居場所を歓迎してくれた。
 私は、すでに次の作品のことを考えていた。
 いつものペリスフィンクテスでもこのくらい丁寧に向き合えば、またどんなものが出来るか知れない。うちのホプロスカフィテス達のことも考えなくてはいけない。
 手始めに、殻付きのペリスフィンクテスをちゃんと自分で買って、クチバシ付きの作品にしてみようか。
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