Lv100第六話
「クラーケン -みどりと古生代館-」
登場古生物解説(別窓)
 今夜もまた、黒い闇と青い光のまだらに潜る。足元は金網のキャットウォーク、手には懐中電灯。
 水の中には何が待ち構えているだろう。
 この角を曲がれば、この廊下を進めば、この窓を覗けば。
 飼育員になって水槽を裏から見るようになり、毎週のように宿直に駆り出されて、そんな喜びは薄れただろうか。
 もちろん、否。
 変わりはしたが薄れることなどない。
 隣の本館でもきっとそうだろう。ましてやここには、世界一古くて、世界一新しい生き物ばかりが揃っている。
 下の、館内の順路と同じ順番で点検していく。
 ゲートにもなっている水槽の、青暗い底。三匹とも眠っているのだろう。長々とした胴体を静かに横たえ、黒光りする両目の前に一対の太い触手を伸ばし、並んだ鰭に挟まる鰓だけを波打たせる。
 アノマロカリス・カナデンシス。
 カンブリアの王、無脊椎の暴君。
 六十センチの体は、他の水槽と比べると大したものではない。サメなら小型の部類だ。しかし出くわしたお客さんは皆そんなことは考えず驚きの声を上げる。
 それは無理もないことだろう。「虫」なのにこれだけ巨大で、しかも逃げ隠れせず堂々とその姿をさらしているのは全く未知の光景だ。
 一匹が光を当てられて躍り上がる。目を覚ましてしまったか。
 体全体を大きく打ち振るい、力強く通路を跳び越す。
 以前はエイのようにひらひらと鰭を動かすとされたものだが、実際は鰭だけ動くことはない。この古生代館、世界で初めて古生代の生き物だけを集めた施設で、本当の泳ぎ方が判明したのだ。
 もう一方の水槽の主であり、もう一方のカンブリア紀の王者である者は微動だにしない。
 ほぼ同じ大きさの巨大三葉虫、パラドキシデス・ダヴィディス。短剣のような棘が両肩から後方に伸びる。
 先程浮かんだアノマロカリスが、すぐ上を通り過ぎてまた水底に落ち着いた。上向きの複眼によく見えているだろうに、パラドキシデスは身じろぎ一つしない。
 アノマロカリスの顎では貝殻と同じ材質の甲羅は砕けないので、パラドキシデスも脱皮のとき小さい水槽に隠れるのを除いて悠々と同居している。
 一匹残らず健康、設備にも異常無し。隣の小さい水槽群に移る。
 虹色に輝く松ぼっくりに似たウィワクシア・コルガタ。透明な円盤の裏から妖しく触手を垂らすエルドニア・ルドウィギ。最初期の魚ハイコウイクチス・エルカイクネンシスが小さな瞳で睨み返す。小学校で飼った青虫を思わせるアユシェアイア・ペドゥンクラタは、キャベツではなく海綿に取り付く。
 どれも手の平にすっぽり収まるほど小さいが、個室で丁重な扱いを受けている。
 背中に棘を並べたハルキゲニア・スパルサ、その水槽に異変はあった。
 水面に白胡麻が一粒浮いている?いや、これは、
「卵!」
 思わず声を上げた。ハルキゲニアが卵包を産んだのだ。
 でも、ほんの少しだけ悔しい。おととい宿直だった先輩は産む現場そのものを見て、撮影までしたのだ。その映像だけできっと良い論文が書けるだろう。
 とにかく卵包を掬って、別の小さな水槽に移す。おとといの卵包の隣。記録も取って、念のため先輩にも連絡しないと。
「新しい卵包が産まれました!」
「マジで!?撮った!?」
「いえ、見つけたときにはもう」
「そっかー、もしかして最初っからー、とか思ったんだけどなー」
 残念そうなのは一瞬だった。
「まっ、いいや!すぐ見に行く!見回り続けてて!」
「え!?あ、はい」
 それっきり向こうから切られたので、本当に急いで家を出たのだろう。
 流石先輩、私も情熱で負けてはいられない。
 点検の続きに戻ろう。エリアが進めば時代も進む。次はオルドビス紀の大水槽。
 海綿に覆われた岩に住むのは棘皮動物、今でいうウニやヒトデの仲間だ。左右非対称のデンドロキストイデス・スコティクスが何匹も長い尾を這わせているのだが、お客さんにもなかなか生き物と気付いてもらえない。ウミユリも海藻か何かだと思う人が多いみたいだ。
 その奥に浮かぶものも生き物離れしてはいる。横倒しになった電柱?確かにそのくらい長く硬質だ。
 だがその先からは、細い触手が何十本と生えた顔が覗いている。レンズのない小さな眼もある。
 長さだけならここで最大のカメロセラス・アルテルナトゥム、巨大なオウムガイの仲間だ。円錐の殻に溜めたガスの浮力で、いつも水中に静止している。
 砂の上には、数センチの三葉虫が群れを作る。大きな鰓が甲羅からはみ出すトリアルツルス・ベッキ。その隙間から対になって突き出した耳かきのようなものは、砂に潜ったネオアサフス・コワレウスキイの眼柄だ。
 どうもまた卵が産まれて孵ったらしい。よく見ると幼生が砂粒に紛れている。
 ハルキゲニアと違ってすっかり慣れてしまった。カメロセラスが時々つまみ食いしているのだが、そのくらいでは減りもしない。
 虫の輪に納まる我々の親類が、何度見ても笑みを誘う。ごく初期の魚、アランダスピス・プリオノトレピス。
 いわゆる甲冑魚である。鰭は尾鰭しかなく、口は閉まらない。兜をかぶった姿が、三葉虫達と奇妙に馴染んでいる。起きているときだって泳ぎの腕に大して差はないのだ。
 しかし仕切りの中にいる荒くれ者は、到底一緒に泳がせられないだろう。メガログラプトゥス・ウェルキ、一メートルに達するウミサソリだ。
 仲間同士ですら、まだ小さかった頃棘だらけの鎌でバラバラに引き裂きあってしまったのだ。パドルのような肢がアランダスピスを遥かに凌ぐ遊泳力までもたらす。
 ウミサソリといえば一つ先のものの方がそれらしい姿だ。まだ手に乗る大きさで、「ザリガニ」と言われたりもするが。
 立派な鋏の付いたシルル紀のプテリゴトゥス・アングリクス。メガログラプトゥスの反省を踏まえ一匹ずつ仕切りに入っている。
 成長すればメガログラプトゥスの倍にもなるはずだ。世界初公開のその巨体に、順調に近付いている。
 脱皮した抜け殻を食べる生き物も多いのだがプテリゴトゥスはやらないらしい。三匹の個室から抜け殻をピンセットでつまみ上げ、捨てずに保管。立派な成長記録兼試料である。
 さて、この先にある水槽は今までのものと一味違う。いや、一味足りない、だろうか。ここだけは淡水なのだ。
 棚にかかったガスマスクを装着、ハッチを開ける。
 デボン紀の沼を再現したジオラマ、その真裏の通路に降りる。
 周りを固めるのも当時の植物を再生したものだ。大気組成の再現も上手くいっているらしく、全て元気に生長している。
 水中に光を当てると、さっと逃げた影が倒木の間に潜った。
 アランダスピスの直系の子孫、プテラスピス・ステンシオエイ。ご先祖様よりずっと泳ぎが上手い。カジキのミニチュアに金の鎧を着せたような勇ましい姿で、意外な人気者になった。
 親類のケファラスピス・リエリも流線型のヘルメットが美しい。やることといったら泥を吸い込んで鰓穴から出す作業なのだが。
 尖った爪が甲羅から生えているのはタラバガニ、ではない。ヤドカリ類はジュラ紀まで現れない。ボスリオレピス・パンデリは、柔軟な尾が生えたれっきとした魚である。
 一見よく似た隣人たちと違い、ボスリオレピスは動かせる顎を持つ。恥ずかしながら、この間ふざけて口を触っていたら指を噛まれてしまったのだ。
 水中にも特に変わったところはない。そう思って懐中電灯を動かしたとき。
 闇の中に二つの眼が光る。
「ひっ」
 情けない声を漏らしてしまった。何がいるかぐらい分かっているだろうに。
 きちんと照らしてみると可愛い目玉がこちらを見ている。平たい頭を水から上げているが、弱々しい四肢では一メートルの体をそれ以上乗り出すことはできないだろう。
 この世界最古級の両生類、アカントステガ・グンナリこそ、この水槽の主人公だ。
 他の四匹は眠るときも水底から上がったりしないのだが、この子だけはいつも、お気に入りの場所で顔だけ出して過ごしている。魚と同じ鰓は水に浸したままだ。
 にっこりと笑ったように大きく裂けた口、小さく丸い手、太いストライプの尾鰭。古生代館きってのアイドル……だと、私は思う。
 ここも異常無し。アカントステガに小さく手を振りながらハッチを出た。
 向かいの、ここで最大・最後の水槽へ。
 古生代という時代はまだ石炭紀とペルム紀が残っているのだが、それは今後の建て増し次第。でも私は、この水槽で締めくくる今のスタイルも好きだ。
 大量に散らばって静止した渦巻きが鈍い輝きを放つ。シュルレアリスムさながらの光景が、圧倒的な水塊の広がりを浮き彫りにする。
 原始的なアンモナイト、クリメニア・ラエヴィガタだ。フックを外に向けて触手を殻の中に巻き込んでいる。これでは顔さえ見えないが、沈んでいるものや水面で浮いているものはいないから大丈夫。
 渦の雲の向こうには、どこか見慣れたような姿がある。凛々しく伸びた尾鰭、三角の背鰭、明らかにサメそのものだ。ただし背鰭は前後に二枚、短い棘のおまけ付き。鼻先は丸く、口が前寄りに付いている。
 今のサメとすでによく似たクラドセラケ・クラルキイ。昔から図鑑でおなじみの生き物が当たり前のようにここで暮らしている。
 クラドセラケは、この水槽の主ではない。
 模造岩と並ぶ巨大な頭が見分けられる。閉じた口は猫に似て少しだけ可愛らしい。 懐中電灯の光に全身を納めることができない。後半身は甚大な筋力を秘めて丸々と太く、斜めに立った長い尾鰭が続く。
 シャチやジンベエザメと並んで、全国の水族館でも最大の生き物。ティタニクティス・アガッシジ。
 二体別々の岩場に陣取って眠っている。ゆったりとした鰓の揺らめきが甲冑の縁から見える。起きているときも、堂々たる泳ぎで見る者を静かに威圧する。
 ここにも異常無し。鰭に傷や皺はなく健康そのものだ。
 古生物が飼育できるとはいえ、皆が想像するような本当に巨大なものはまだ難しい。人に見せるとなればなおさらだ。それがここでは、最高のコンディションで実現している。
 この水槽の大きさがそのまま、ここで働く私の誇りの大きさだ。

 それから一日半、入口直後。
 私の手の中にはカウンターが潜んでいた。
 カチリ、カチリ。こっそりと数える
「お前、何それ?」
「何って」
「うわっ」「うわ」
 カップルだった。二回。
「アノマロを見て入るのを止めたお客さんの人数ですよ……」
「あー……」
 奥からも何やら悲鳴が聞こえてくる。子供が泣くのはしょっちゅうのことだ。大体はティタニクティスあたりが人食い怪魚にされている。
「あんま気にすんなよ、仕方ないんだからさ」
 ここを素通りすればイルカショーが見られる配置になっているせいもある。
「でもほら、あの子とか」
「うん」
 オルドビス大水槽の前で、坊主頭の子が一人、ずっとしゃがみ込んでいる。
 主役のカメロセラスを余所に、砂をかき回す三葉虫達を見つめ続けているのだ。手には親から借りたコンパクトカメラ。
 嫌がって消されてしまうかもしれないし、あまり上手く撮れてもいなさそうだ。
 それでも今この時、夢中で見てシャッターを切る。そのことが大事だと思わずにいられなかった。
 悪夢と思う人も多いかもしれない。だとしてもここは、起きたまま夢を見せる場所なのだ。

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