Lv100第五十八話
「オウルベア -真奈とイングリッド-」
登場古生物解説(別窓)
 残暑がそろそろ終わろうとしている。動物園は夏休みの賑わいから、つかの間の落ち着きを経て行楽シーズンを待ち受ける。
 私の前にある放飼場に、乾いた風が吹き抜け、かすかな砂埃を立てる。
 斜面をゆっくりと登るのは、二頭の肉食恐竜だ。
 手は羽毛が生えて小さな翼になっているが、頭や体はそれと不釣り合いに大きく、たくましい。後ろ脚も太く頑丈だ。
 背筋に沿って生えたごわごわの毛がクマを、脇腹から脚に細かく生え揃った毛がウマを思わせる。
 全長六メートル、高さは一メートル半。翼のある恐竜の中では異様に頑強な、ユタラプトルである。
 年長のメス、イングリッドが先を行き、頭を下げて鼻を地面に近付ける。妹分のロッティもそれにならう。
 私はそれを、ビデオカメラで撮影しながら見つめている。
 歩みを続けるか、木陰に戻るか。それを彼女らに選ばせるものは何か。今この場の全てが見逃せない。

 先々月。
 放飼場が以前の平たい地面から、広い斜面に改修し終わって一週間ほど。
 水はけが良くなったおかげで梅雨の雨水でも泥にならず、ユタラプトル達は自由に駆け回れるはずだったのだが。
 放飼場の様子を見渡していると、先輩飼育員の吉田さんが話しかけてきた。
「大野さん、ユタどう?」
「うーん、午後もずっと木陰ですね」
「そっかあ」
 イングリッドとロッティ、それに二頭の間の年齢であるオスのオスカーは、寝部屋の出口を囲むナンヨウスギのまばらな林からあまり動かずに過ごしていた。
「怪我とか体調でもないよねえ」
「はい、三頭とも。工事中と同じです」
 林の部分は運動場の改修工事中も手を付けられずユタラプトル達が過ごしていた。
 工事が終わって林と運動場を隔てる壁が取り払われても、ユタラプトル達は運動場に出ようとしないというわけだ。
「あっ、餌探しは?」
「肉を隠したら取りには行くんですけどね。匂いで場所がすぐ分かっちゃうみたいで、さっと取ってさっと帰っちゃいます」
「流石っちゃあ流石だねえ」
 優れた嗅覚と高い知能をこんな風に発揮するとは。
 林に隣接した観察小屋にはお客さんが頻繁に出入りしていた。多くは夏休みを利用してやって来た親子連れだ。
「すげー爪!」
「怖いねー!」
 小屋の林側は一面アクリルガラスで、ユタラプトル達の姿がとてもよく見える。
 鳥に近い恐竜なので、休むときは体を少し起こしてしゃがむ。すると頭の高さは大人の背丈ほどにもなる。
 後ろ足の爪のうちひとつは、大きく曲がって鎌のようだ。
 翼の中にも鉤爪を隠している。飛ぶ必要がないので、羽は荒々しく乱れている。
 顎は長くたくましく、あくびのたびにずらりと並んだ牙が見える。暗い黄色の虹彩を持つ丸い目が爛々と輝く。
 そんな姿の彼女らだが、別段争うような理由も出来ず、仲良くして過ごしている。
 ロッティが鼻先でイングリッドの背中に触れ、毛を撫で付ける。イングリッドは気持ちが良さそうに目を細め、ロッティにお返しをしてやる。
「可愛い!」
 こんな声も聞こえる。
 要するに、肉食恐竜の恐ろしい姿と、動物の可愛らしいところ、どちらも見られてお客さん自身は喜んでいるのだ。
 しかしこれは観察とはいえない。
「隣も恐竜だってー」
「行こっか」
「フクイラプトル!」
 次々と観察小屋に入ったお客さんは、また次々と出てくる。さほど動きのないユタラプトル達を長々と見つめる人は少なかった。
 隣の区画にいる、県内で見付かった恐竜であるフクイラプトルやフクイサウルスのほうが注目の的だ。それ自体はいいことなのだが。
 運動場を囲む園路に設置されたベンチに座っているお客さんを、ほとんど見たことがない。運動場に誰もいないのだから当然だ。
 ユタラプトル達を騒がしい観察小屋のそばに追いやるために運動場を不安な荒れ地にしたのではないのだが……。
「あのう」
「わっ」
 背の高い壮年の男性に呼びかけられて、吉田さんが驚き、振り向いて私も驚いた。
 運動場の改修を行った施工業者の小原さんだった。
「すみません、お邪魔してしまって」
「いえ、こちらこそすみません」
「テレビの地域ニュースで、ここのことをやっていたんですけれども」
 うっ、と声に出しそうになった。
「人気だっていう内容ではあったんですけども、元気に走り回ってるとかではなかったもので……」
「ええ、そうなんです。私達も番組を見たんですが、実際にそのとおりで」
 せっかく作ってくれた運動場を活用できていない様子をわざわざメディアに伝えられてしまったわけだ。
 しかし小原さんのほうもずいぶん恐縮した様子だった。
「何か、私どもの仕事に至らぬ部分があったのでは、と」
「ああ、いえいえ、そんな!」
「計画どおりの素敵な運動場ですから!」
 私達が慌てて言うと、小原さんは顔を上げて目をしばたいた。
「というと、これは」
「今はその、できてすぐですから。ユタラプトルは用心深い生き物なので、慎重になっているんです」
 そう言っているうちに私自身決意が固まってきた。
「ユタラプトルが早く慣れてここで遊べるよう、私達も手を尽くしますので。ご安心ください!」

 とはいってもどうしたものか、特に何も案のないまま翌日。
 ユタラプトルの放飼場の周りには、時代と地域の近い別の恐竜もいる。彼らの過ごし方は参考になるだろうか。
 まずはユタラプトルの寝部屋の周りと同じく、まばらな林にいるデイノニクス。
 これはユタラプトルを小さく身軽にしたような恐竜で、木に登ることもある。斑模様と相まってヒョウを思わせる。
 斜めの丸太を駆け上がったり、ナンヨウスギの落ち葉を散らして飛び跳ねたり、活発に過ごしている。
 同じく疎林にいるファルカリウスは、ユタラプトルやデイノニクスの属するドロマエオサウルス類とは少し異なる。
 体を少し起こしたままゆっくりと歩き回っては、鉤爪の付いた細長い手で木の幹をつかみ、長い首を伸ばし、ぶら下がった籠の中の野菜を短いクチバシでついばむ。
 ドロマエオサウルス類と同じ肉食の祖先から、肉食をやめて木の葉を食べるように変わっていった、パンダのような恐竜だ。
 動きは遅いがファルカリウスはファルカリウスなりに行動している。
 疎林を抜けるとまたユタラプトルの放飼場に似た広い荒れ地で、そこには鎧竜のガストニアがいる。
 鳥に近いユタラプトルやファルカリウスとは全く違い、どちらかというとワニかカメを思わせる。背中はタイルのように大きな鱗で覆われ、棘が立っている。首から脇腹、長い尻尾まで刃状の鱗が並んで、まるで鋸だ。
 ガストニアは根っからの植物食動物で、しかも逃げ惑うよりは敵の攻撃を弾き返すタイプだ。用もなく飛んだり跳ねたりしない。
 さすがにガストニアは参考になるまい。というかガストニアにももう少し運動を取らせてやったほうがいい。
 私はファルカリウスのほうに戻り、解説板にくくりつけられた爪のレプリカに目をやった。
 ファルカリウスのものだけでなくユタラプトルやデイノニクス、さらにフクイラプトルのものも、手足ともにある。
 ユタラプトルとデイノニクスの爪は全て深く曲がって、鋭く尖っている。
 特に後ろ足の最も内側の一本が大きいが、ユタラプトルのものは人間の手首まで刈り落とせそうでぞっとする。
 フクイラプトルはユタラプトルとはだいぶ違う肉食恐竜だ。ユタラプトルと逆に手の爪が大きく、足の爪は小さい。獲物の捕りかたや食べかたが違うのだ。
 ファルカリウスの手の爪は、形こそ他のものとそう違わないが、あくまで木をつかむためのものだ。
 やはり参考になるのはデイノニクスだけだろうか。いっそう注意してデイノニクスの様子を見なくては。観察日誌も読み返してみよう。

 それから一ヶ月後の早朝。
 積み上げてあった日誌を片付けながらため息をつくと、吉田さんが軽く苦笑した。
「ダメっぽいねこりゃ」
「ダメっぽいですね……」
 思った以上にデイノニクスが参考にならない。
 デイノニクスの動きが活発なのは、三次元的な林をフル活用しているからだ。
 そこでユタラプトルもせめて林の木に登らないかと思って木の上に肉を置いても、ユタラプトルは匂いを嗅いで見上げるばかりだ。
 高すぎたかと思って木の低いところに置いても、今度は体を起こしてひょいと取ってしまう。
「ユタラプトルとデイノニクスって全然違うんですね」
「そりゃヒョウとクマぐらいには」
 体重、プロポーション、ついでに背筋の毛。的確な表現だった。
 クマならごくたまに木に登るが、それはクマがサバンナではなく森の生き物だからだ。サバンナの生き物であるユタラプトルには、サバンナを歩き回ってもらわねば。
 しかしまず開園前に私がサバンナを歩き回って肉を置かないと。
「行ってきます」
「行ってらー」
 肉片をトングで岩の間に差し込み、草の陰に隠し、倒木のかたわらに潜ませる。
 それから、放飼場の中に異常がないかよく点検する。ゆっくり歩いて、目を凝らす。
 ふと、こうやって運動場を慎重に歩いていると、私がユタラプトルになったみたいだと思う。
 それなら運動場をたくさん歩いていることになって万事解決だ。
 いや、そうか。
 なるべきなのだ。
 ただ点検するだけでは駄目だったのだ。自分がユタラプトルのつもりになって点検しなければ、ユタラプトルにとっての異常が分からない。
 まだ少し時間がある。その間だけでも。
 私はユタラプトル、私はユタラプトル、私はユタラプトル……、
 体をかがめ、首を伸ばし、腕をたたむ。
 私はユタラプトルだ。
 生まれ育った群れを離れ、新しくやってきたこの土地で何か食べられるものを探さないといけない。
 今立っているのは丘の下らしい。目の前の地面はだいぶ傾斜している。
 横切るようになら走れるが、一気に駆け上がるのは大変そうだ。
 小川も流れている。シダが生えているということは安全な水か。飲み水があるのはありがたい。
 ところどころに木が生え、見通しのきかないところがある。
 右手の藪は特に濃い。あの裏に何かないだろうか。
 他のユタラプトルが隠れるほど高くはない。
 もし獲物を持ったデイノニクスの群れがいたら、上手く追い払えば楽に食べ物が得られる。
 でも今は美味しそうな血や脂の匂いは特にしていないみたいだ。
 そうだ、こういうところでは鼻を利かせなければ。
 何しろ私はティラノサウルス類の次に嗅覚の鋭い肉食恐竜、ドロマエオサウルス類なのだから。
 匂い、匂い、草木と砂の匂いの中に、わずかに肉の匂いが……ヒトには分からないがユタラプトルなら……。
 そうか、匂いだ。
「あっユタラプトルだ」
 決定的なことに気付くと同時に、外から吉田さんに見られた。
「し、しゃー」

 それからもユタラプトル自体の日誌の精査や手法の検討、準備に一ヶ月ほどかかり、もう残暑が終わろうとしていた。
 ついに、運動場に匂いを付ける日だ。
 開園前。早めに肉を運動場に隠してから一旦作業場に戻る。
 吉田さんが、ガストニアの寝部屋から猫車を押して現れた。
「産地直送だオラァ!」
「うおーっ!」
 猫車に載っているのは、ガストニアの糞だ。
「頼もしい匂いですね……」
「青草食べないで根菜めっちゃ食べるからね……」
 しかし、それでこそ役に立とうというものだ。
 割り箸でほんのひとつまみ、ポリ容器の中へ。
 水を注いでしっかり蓋を閉め、よく振って混ぜ、溶液を霧吹きに移す。
 吉田さんとともに再び運動場へ。
 まずは肉を隠したところへ……肉そのものに溶液がかからないよう注意して。
 岩や草むらの周囲に、溶液をどんどん吹き付ける。
 さらに、今日使っていない隠し場所の周りにも。
 肉探しゲームの難易度が上がっていく。もうイージーモードのやり方は通用しないだろうか。
 それとも、まだユタラプトルにとってはたやすいのだろうか。
「おらおらー!おらおらー!」
 吉田さんは何やら妙に威勢良く、隠し場所と林の間や、隅のまるっきり関係ないところにも溶液を吹き付けていく。
 その間に私は、林の下に落ちているナンヨウスギの落ち葉や枝、さらに砂まで、ほうきとちりとりでかき集めた。
 そして運動場の斜面を駆け上がり、そこから思い切りぶちまけた。これで馴染みのある匂いも付いただろう。
 さらに、予定外ではあったが、ユタラプトルが登りもしないのに無駄に斜めに立ててある丸太に手をかけ……
「ふんぬー!」
「やめとけ〜」
 全く持ち上がらない。いけそうだったら転がして放り出してやるところだったのだが。
 まだ初日だ。焦ることはない。
 やるべきことを全てこなしたことを点検。
 ビデオカメラを構え、運動場の外に立つ。
 吉田さんが開園とともに寝部屋のゲートを開くと、ユタラプトル達が放飼場に現れる。
 すぐには匂いに気付かないようで、林をすたすたと歩き回っては、隅に鼻を付けたり、互いを口先で撫で合ったり、普段どおりの朝を迎えている。
 もしかしてこのまま運動場の変化に気付かない、なんてことも……?
 いや、肉を探しに運動場に出ないといけないのだからそれはない、と思いたいが。
 すると、イングリッドがふと顔を上げて運動場を見た。やはり気付いたようだ。ロッティも続く。
 踏み出すか、いつものように駆け出すか。不審がって出ないか。
 二頭は、そっと林から出た。
 そして鼻を地面に向け、そのままゆっくりと進む。
 オスカーだけは二頭の動きや運動場に無関心で寝そべっている。
 イングリッドもロッティも、明らかに肉の位置を把握しきれず、手がかりを探している。
 私だって、君達が運動場を使ってくれるようになるための手がかりを必死で探していたのだ。頑張ってもらおうじゃないか。
 二頭が斜面の真ん中まで進んだあたりで、お客さんも園門からここまで進んできた。
 お客さんは観察小屋に入っていく。そこにはオスカーがいる。本当はオスカーが動かないのは惜しいのだが、この場を任せておくしかない。
「あれ、今日一匹だねー」
 そんな声も聞こえてくる。
 しかし、二組ほどのお客さんは、運動場を囲む手すりをつかみ、イングリッドとロッティを眺めていた。
「かっこいいねえ」
 男の子の母親がそう言ったのが聞こえて、あんまり嬉しかったのでつい振り返ってしまった。
 カメラを構えて動けない私に代わって、吉田さんが声をかけていた。
「この中に餌を隠してあるんです。いつもすぐ見付けてしまうので、遊びとして面白くなるように今日はちょっと見付けづらくしてみました」
 へえ、と、周りのお客さんが皆小さくうなづいた。
 ずっとお客さんのほうを見てはいられない。順調に行けば私も詳しく解説ができるだろうか。
 頑張れー、と、子供達が声を出す。
 ロッティが正解の岩に近付く。
 これはそろそろ見付けてしまいそうだと思うそばから、ロッティは岩の周りを二、三度嗅ぎまわっただけで肉をつまみ上げた。
「フシュー!」
「グウウ」
 いつになく嬉しそうに鳴くロッティに、イングリッドもうらめしそうな声を漏らす。が、そのイングリッドもロッティにちょっかいを出すこともなく、すぐに草むらから肉を探し当てた。
 二頭とも肉を落ち着いて食べようと林に戻るのはいつもと同じだが、運動場に匂いが増えたのを確かめるためか、あたりを振り向きながらゆっくりと歩いていた。
 そう大した時間ではなかったが、それでもいつものヒットアンドアウェイよりはるかに長く運動場で過ごしていた。
 オスカーにもいずれ動いてもらわなければ。まだファルカリウスの糞は試していないがそちらのほうが効き目があったりするだろうか。
 工事が終わってから二ヶ月は経つが、運動場が本当に完成するのはこれからだ。

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