Lv100第五十六話
「ジャール・プチーツァ -鈴音と玲子と翼竜達、アクアサファリわかやま(スカイラグーン)-」
登場古生物解説(別窓)
 私が解説員になってから初めてのクリスマスが訪れようとしていた。騒がしかった夏と比べると、十二月は和歌山全体も、アクアサファリの館内も、なにか穏やかだ。
 とはいえクリスマスシーズンなのだから、アクアサファリなりに華やかに飾り立てられている。
 ラディオリウムホールには光るツリーがずらり。もちろん、ただのツリーではない。
 トリアッソカンペ、ディクティオミトラ、ポドキルティス・チャララ、ランプロキクラス、ネオアルバイレッラ。円錐形の放散虫を模したコーンなのだ。
 壁に貼られた雪の結晶のステッカーはよく見るとエンネアフォルミス、雪だるまもバルプスだ。リースはテトラピレ、アカントデスミア、サトゥルナリス。星のふりをしているものなら、それこそ数え切れないほど。
 ホールだけではない。ジュラシックアイランドから上に抜け、時空遊覧船「いずみ」が停泊している浜辺にも、放散虫のツリーがある。
 今日私はワゴンを押しているので、来館者と同じ視点から浜辺に近付いていくことはできないが。
 ガラスの天井を通して午後一時前の日が注ぐ。「いずみ」も砂浜も柔らかく輝く。
 砂浜の「いずみ」に向かって左、クレタシアスオーシャンの反対側は、からりとして暖かい大温室「スカイラグーン」だ。
 ガラスは高く、それを支えている鉄骨は白く塗られていて、青空の爽やかさを邪魔しない。
 その下はほとんど海、いや、浅く広い水槽である。
 砂浜の陸寄りに長くウッドデッキが通じている。その端には、縦長の三角テントに珊瑚の冠をかぶせたようなシルエットの、透明樹脂のツリーがある。
 ナポラ・アラネア。温室に飛び交う住人達と同じ地層から発見された放散虫だ。
 ウッドデッキの内陸側は一段高く、目の細かい網で海側から仕切られたフードコートになっている。
 来館者が椅子にゆったりと腰かけてくつろぐ姿が見えた。冬場にはこの暖かい温室の人気がぐっと上がる。
 しかし、ゆっくりしていられるのは大人だけで来たグループばかりだ。先へとせかす子供達の声がしょっちゅう聞こえる。
 そこで温室の住人の出番だ。
 デッキの手すりには、主に子供達が取り付いて、砂浜や、浅い水槽、その中の三つの島を見下ろし、あるいは、ときおりその上を見上げる。
「鳥、鳥ー!」
「鳥じゃないよ、手で歩いてるよ!」
 砂浜を歩くのは、ほんのハトほどしかない、赤褐色の生き物。アクアサファリの他の展示と比べたら、ずいぶん可愛らしい主役だ。
 私はワゴンを止め、鳥との違いを指摘した女の子に声をかけた。
「良いところに気付きましたね!ここにいるのは鳥とは別の、恐竜の時代の動物なんです」
 菜箸のように長いクチバシから細かい歯が覗く。クチバシと一緒に、額の薄く丸いトサカも振られる。
 体を起こし、下を向いて、手をついてぎくしゃくと歩く。その松葉杖のような前脚や、少しがに股の細い後ろ脚には、畳んだ凧のような膜がくっついている。胴体を覆うのはつややかな毛皮である。
 プテロダクティルス。鳥に先駆けて空を支配した脊椎動物である、翼竜のひとつだ。
 目の前の砂浜にはプテロダクティルスが二十匹ほどもうろついている。大きめの小鳥ほどのものからカラスほどあるものまで、同じ群れでも大きさはばらばらだ。
 私はワゴンに載せてあった貸し出し用の双眼鏡を子供達に配った。
 フィーディングタイムのないスカイラグーンでの、のんびりした解説イベントが始まったのだ。
「ここには五種類の翼竜がいますが、一見どれもよく似た格好なので形で見分けるのは大変です。そこで、それぞれ違ったことをしているのを見付けて、色んな種類がいるのを確かめてみましょう」
 種類と行動をまとめたフリップもワゴンに用意してある。
「砂浜を歩いているのは、プテロダクティルスです」
「みんな下向いてるー」
 長い首を少したわませて前に向け、クチバシを砂地に向けたまま、じりじりと進む。
「食べられる小さな生き物を探しているんです」
「あっ、砂つっついた」
 砂浜の中には、オキアミや貝を混ぜた砂を詰め、口を上に向けた容器がいくつも隠してある。毎日移り変わる容器の場所をプテロダクティルス達は知らないので、砂を探る様子は真剣だ。
 中には大当たりも。
「口埋まってる奴がいるー!」
「ゴカイの穴を見付けたみたいですね」
 餌の中でゴカイだけは生きている。その巣穴を見付ければ、プテロダクティルスはすぐに細いクチバシを突っ込む。
 そして、奥に潜むとても細長いごちそうを引きずり出す。
 その小さな躍動に歓声が、または、ミミズのようなものの姿に叫び声が上がる。
 当たりを引いた一匹のそばにいたものまでゴカイを欲しがって騒ぎ出すが、本人はすぐに飲み込んでしまった。
 置かれていたアンモナイトの殻をひっくり返すものもいる。これも当たり外れがあり、運良くオキアミの隠されたものを引き当てたらそのまわりは大騒ぎだ。
 プテロダクティルスはそんなにしょっちゅう飛ばないが、そこらじゅう飛び回っている翼竜もいる。
 白い影がプテロダクティルスの群れのすぐそばに降り立ち、プテロダクティルス達が抗議の金切り声を浴びせかけた。
「わーっ、うるさーい!」
「なんだあれ、頭でかっ」
 くさび型の頭はプテロダクティルスよりずっとがっしりしている。口から覗く牙は長くまばらだ。背中は濃い灰色で、その先にはプテロダクティルスにはない長い尾が見える。
「スカフォグナトゥスですね。すぐ飛び立つと思います」
 そう言い終わらないうちにスカフォグナトゥスはその場から跳び上がった。
 体こそ小さいが、翼の端から端までは一メートル近い。目の前に突然壁が立ったようだ。
「飛ぶとでかっ!」
 長大な翼を羽ばたかせ、後ろ脚の尾羽を伸ばし、私達のすぐ頭上を軽やかにターンする。
 張りのある翼の膜がガラスの向こうの青空を切り、わずかに日の光で透ける。
 スカフォグナトゥスは波打ち際を飛び越え、水面に顔を出した小さな島に向かった。
 基本的には小さく素早い生き物だから、高度を下げたと思ったらもう砂地に四本足で立っている。
 すると島に先にいたスカフォグナトゥスが驚いて飛び立ち、あたりを大きく一周してまた元の島に降りた。二頭はそわそわと辺りを見回し、今にもまた飛んでいきそうだ。
「あんなふうに飛び回っているのがスカフォグナトゥスです」
 温室を見渡せば常に何匹ものスカフォグナトゥスが、島から島へ、またこちらの岸へとせわしなく飛び回っているのだ。
「あそこでぼーっとしてるのも同じ種類!?」
 一人の子が指差したのは、温室の真ん中にある特に大きな島の上だった。
 大きな島の中心は台形に盛り上がった擬岩で、十数匹のスカフォグナトゥスが休んでいる。
「そのとおりです。どんなところで分かりましたか?」
「頭が大きくてねー、尻尾がある!」
「そうですね。スカフォグナトゥスは頭ががっしりしていますし、ここで昼間によく見かける翼竜の中で尻尾が長いのはスカフォグナトゥスだけです。これで、何もしていなくてもスカフォグナトゥスが見分けられるようになりましたね」
 このように、何かきっかけがあれば生き物の見分けがつくようになりやすい。
 そして見分けがつくようになれば、そうなる前に思っていたよりずっと色々な生き物がいることが理解できる。
 また別の島から、今度はプテロダクティルスが三匹群れを作って飛んできた。
 これももう皆スカフォグナトゥスと簡単に見分けられる。砂浜で役に立つ長いクチバシを、空中でも斜め下に向けている。
 飛んでいるときは翼の膜の大部分が白いのがよく見える。これはスカフォグナトゥスと同じだ。
 そこに、さらに別の翼竜が現れた。
「あっ、あれをよく見てください」
 どちらかというとプテロダクティルスに似たシルエットのものが、水面すれすれを滑るように通り過ぎる。
 一瞬、水面にしぶきが散る。
「魚を捕まえたみたいです」
「あれも砂浜のと同じ?」
「また別の種類で、ゲルマノダクティルスです。魚を捕まえようとして低く飛んでいることが多いです」
 目刺しほどしかなく、よく見ないと分からない獲物をくわえて、ゲルマノダクティルスは飛び去った。
 スカフォグナトゥスほどしょっちゅう見かけないが、ゲルマノダクティルスも飛んでいることが多い。
「羽長いねー」
「海の上を長く真っ直ぐ飛ぶのに向いた形なんです」
 ゲルマノダクティルスの体は薄い灰色で、翼は細長い。
 あまり羽ばたかずに水上を滑る姿を見つめていると、自分がゲルマノダクティルスの背に乗っているような不思議な気分になる。
 鼻筋に沿った出っ張りと目の周りだけ赤い。クチバシはほどほどに長い三角形をしている。
 ゲルマノダクティルスは砂浜の端の、特に静かなところに降りて姿が見えなくなった。
「水の上にいるのは?」
 双眼鏡を借りている子からそう尋ねられた。
 水上には長い涙滴型をした黒いものが三十数匹も浮いている。プテロダクティルスと同様大きさにはかなり幅がある。
「夜行性の種類ですね。今は休んでいるみたいです。それでは、あの橋を渡って近くで見てみましょう」
 砂浜のウッドデッキは分岐して、大きな島に渡る橋に続く。
 ワゴンを押してそちらに向かうものの、何人かの子は親に呼ばれ、渋々双眼鏡を返して去っていった。
 橋の欄干には虫眼鏡の形をした飾りが立っている。
 覗き込めば小さな生き物の姿が見える。
「何これー」
「翼竜と同じ地層から見付かったプランクトンです」
 レンズにあたるガラスに放散虫の姿が彫りつけられているのだ。
 デッキでもツリーとして活躍するナポラ・アラネア。
 UFOキャッチャーの手のような姿のサイトウム・パゲイに、剪定鋏を思わせる二本脚のアナティカピトゥラ・テネラ。
 牛の角が生えた麦わら帽子はカッシデウス・バイアンヌラトゥス。尖った三角帽子はコルヌテッラ・テッラだ。
 そしてホタルブクロの花に似た膨らんだ円錐はトリテヌム・ヒルストゥム。
 ここでは放散虫について詳しい説明はしていない。突飛な形を面白がる子供達にも、後でこれを思い出し、海の世界を支える小さな生き物の存在を意識してもらえればと思う。
 橋の上からもたくさんの翼竜が見られる。スカフォグナトゥスは慌ただしく、ゲルマノダクティルスは静かに、頭上を通り過ぎていく。
 そして、水上で休んでいるものにも近付いていく。
 島の手前側の岸は砂浜になっていて、ここにもプテロダクティルスが集まっている。
 私達は島の岩山を取り巻くデッキにたどり着いた。
 ここからなら、水上のものの姿がよく見分けられる。
「水に浮かんで休んでいるのはランフォリンクスです。ランフォリンクスの目は夜でもよく見えますが、昼はまぶしいので寝ているものが多いですね」
「うわ、口すげー」
 長い円錐形の口には細長い歯がずらりと生え揃い、上下が噛み合っている。目はしっかり閉じている。
 そして、翼が肩から長く後ろに伸びる。爪のあるところから先がとても長いので、畳んでもそこだけ余るのだ。翼の見えている部分のほとんどは黒いが、膜の引き縮められた部分は白い。
 翼の間から真っ直ぐな尾が出て、その先にある鰭は真っ赤。
「羽すっげー長い!」
「ここにいる翼竜の中で一番翼が長い種類です」
 特に大きなものは口の先から畳んだ翼の先まで一メートル近い。成長によって尾の先の鰭は三角に変わっている。しかし、体はやはりハトより一回り大きい程度でしかないのだ。
「飛んでるとこ見たいなー」
「でも夜行性ー」
「お姉さんは飛んでるとこ見たことある?」
「はい、ありますよ」
 私はワゴンからタブレットを取り出して動画を表示した。
 満月の夜。温室の中まで月光に照らされ、水面に白い光が走る。
 その上を、波の陰影をかき消すように白く長いものがいくつも滑っていく。翼の膜が白く浮き上がって見えるのだ。
 先程のゲルマノダクティルスに似た、翼をほとんど羽ばたかせない飛び方だ。しかしもっと高度が低く、ほとんど水面すれすれだ。
 時折、ランフォリンクスの口先から小さな波が出る。
 クチバシで水面を引っかくようにして魚をくわえ上げるのだ。
 ブレーキをかけるときに後ろ脚の尾羽を広げる。また、棒状の尾とその先の鰭のおかげで、口を水に当てても体は安定している。
 そんな風にして、たくさんのランフォリンクスが夜の漁を行っている。
「すっげー」
「いいなー」
 ランフォリンクスが活発に活動している様子を見るのは、どうしても従業員の特権のようになってしまう。今見せたような映像をもっと展示できれば良いのだが。
「ごくたまになら昼でも飛んでいることがありますよ」
「ごくたまにかー」
 私の解説をよそに、島にある別の展示を見ている子もいた。
「マジで魚いるー!」
「魚!?」
 デッキの縁に備え付けられた、一見双眼鏡のような装置を覗いたのだ。
 それは空中ではなく、潜望鏡をひっくり返した要領で水中を見るものだ。
「翼竜が捕まえて食べている魚ですね。これも翼竜と同じ時代の魚ですよ」
 水面上からも小魚の群れが見える。翼竜達と同じ地層で特に多く見付かるレプトレピデスだ。
 子供達は動きのないランフォリンクスから目を離してレプトレピデスを眺め始めたが、私は視界の端にその動きを捉えた。
「ランフォリンクスが飛んできますよ!」
「本当!?」
 そう言っている間にもその白黒の翼は水面を撫でつけて私達の前に迫っていた。
 小さな体の何倍も長い翼。閉じた尾羽。真っ直ぐな尾。
 おおーっ、と、子供達が声を漏らして迎える。
 やがてそのランフォリンクスは体をわずかに起こして肩の上で羽ばたき、足を開いて水面に接する。
 次の瞬間には翼を後ろに畳んで、胸のほうまで水に浸かっていた。
 そして手足でややぎこちなく水をかき、先に休んでいた仲間に加わって自分も目を閉じた。
「皆さんラッキーでしたね。向こうの木の上で寝ていて何かに驚いて飛んできたみたいです」
 砂浜の端には、翼竜達と同じジュラ紀の植物が植えられた藪がある。
 ザミテスというソテツに似た腰ほどの高さの植物の、放射状に突き出た葉の中央をよく見ると、ランフォリンクスが収まっているものがある。
「また飛ぶときはどうするの?」
「では飛び立つ動画をお見せしましょう」
 私は再びタブレットで動画を再生した。
 薄暗い中、ランフォリンクスが水に浮かんでいる。画面を横切るのは他のランフォリンクスの翼だ。
 畳んだ翼の先が突然、後上方を向いた。翼の爪のあたりで水面を押し下げたのだ。ランフォリンクスの体は前に飛び出す。
 ランフォリンクスは何度もその動きを繰り返し、次第に速く高く水面を跳ねる。
 この様子は滑稽に見えるらしく、動画を見ている子供達は笑い出す。
 完全に宙に浮くと同時に翼を上に伸ばし、振り下ろした。
 ランフォリンクスの運動はもはや滑らかな飛翔に移っていた。
 ズームアウトすると、大勢のランフォリンクスが連続水面ジャンプで空中へと躍り出している。まだ笑っている子も、迫力を感じている子もいる。
「飛び立つのはあんまり得意ではないです」
「面白かったー!」
「もう一回見せてもらっていいですかー?」
 子供達はとても明るい顔をしている。小さな生き物が賑やかに動く様子は子供に人気があるらしい。
 ひとしきり写真や動画、翼竜の抜けた歯などを見せ、それもしばらく経つと子供達は親に呼ばれて温室を去っていく。
 最後に残った男の子は、ザミテスの茂みのあたりを双眼鏡で見つめていた。
「気付きましたか?」
 その子は無言でうなづいた。
 ランフォリンクスの他に夜行性の翼竜がもう一種類いるのだが、なかなか紹介しきれない。
 静かなザミテスの根元に翼を畳んでたたずんでいるのは、クテノカスマだ。
 濃い紺色の頭、青灰色の翼、木陰と見分けづらい。目を閉じているから顔も目立たない。
 プテロダクティルスに似て長いクチバシがあるが、その周りをびっしりと毛のようなものが取り囲んでブラシ状になっている。とても細い歯が大量に生えているのだ。
 クテノカスマの動画を見てもらっているうちに、その子のことも親が迎えに来た。

 四時半過ぎ。閉館の時刻が迫っている。
 ワゴンを片付けようと島から橋を渡ると、陸側は静かになっていた。
 スカイラグーンは順路の途中の脇道なので、来館者の姿は全くない。飼育員やフードコートの従業員が片付けに動き始めているばかりだ。
 放散虫のツリーや飾りが最後の光を放ち、ガラスの向こうに真っ赤な夕日が沈む。
 そんな物寂しい温室に、長身の女性の姿がふらりと現れた。
 いつもの白衣を着ていないのですぐに気付かなかったが、無造作にまとめた長い髪は見慣れたものだった。
 放散虫を扱っている研究員の築道(ついどう)さんだ。
 こちらに気付いた築道さんは人差し指を立てて口に当てた。裏方の従業員が営業時間中に展示エリアにいることについて咎めないでほしいと言っているのだ。
「お疲れ様です」
 私はただそれだけ言った。
「うん、お疲れ様」
 築道さんはウッドデッキ沿いに進み、島への橋の近くで手すりにひじをついてもたれかかった。
 プテロダクティルスが小さな島から手前の砂浜や大きな島に飛び移り、わらわらと動いてお互い一匹分ほどの距離を取る。
 スカフォグナトゥスは大きな島の岩山に集まり、岩の上に伏せたり岩肌のくぼみに取り付いたりする。よく見るとゲルマノダクティルスが混ざっている。
 そうして寝支度を整える翼竜達を築道さんはぼんやり眺めたが、すぐに私のほうに振り向いた。
「解説、してみてくれる?」
「解説ですか?」
「うん。翼竜、というか、動物界のことはよく分からなくて」
 築道さんが研究している放散虫は動物でも植物でもない。
「子供向けの内容でもいいから」
「分かりました。今大人しくなってる種類が多いので、見分けづらいかもしれないですが」
 築道さんは生き物の世界の雰囲気や多様さは分かっているが、脊椎動物の基礎知識があるわけではない。
「すぐそばにいるのはプテロダクティルスです。この砂浜に集まって寝ようとしてるところですが、昼間も砂浜を歩き回って過ごしてます」
「活動にはっきり周期性があるんだね」
「プテロダクティルスはあんまり夜目が効かないですからね。島の岩山で寝てる種類もそうですけど、水面にいるのは逆に……」
 そう話しながらランフォリンクス達に目を向けて私は気付き、ワゴンからタブレットを取って橋のほうに振り向いた。
 ランフォリンクスの真っ黒い目はもう開いている。
「逆に、これからが見頃です。橋の上に急ぎましょう!」
「えっ、うん」
 築道さんも戸惑いながらも手すりから身を起こしついてきてくれた。
 キャッ、キャッ、という鳴き声がいくつも上がっている。
 早足で橋を渡る間にもそれは始まっていた。私はあわててタブレットのカメラを起動した。
 群れの奥にいるランフォリンクスの畳んだままの翼が前後に素早く揺れ、両肩から波が起こる。
 それは次第に手前へと伝わっていく。
 キャキャキャッ、キャキャキャッ、ザザザ。三十数匹の鳴き声が鋭くこちらまで届き、水を叩く音が混ざる。
 激しくかき乱される水面からランフォリンクスの体が投げ出され、翼が左右に、尾羽が後ろに飛び出す。
 白い膜が夕日を受けて橙に透ける。
 水の小さなきらめきが羽ばたきによって細切れにされる。
 小さな尾鰭の赤がちらつく。
 水面は黒と橙と赤の震える花畑となり、それは丸ごと持ち上がっていく。
 築道さんの横顔をちらりと見ると、口を開けてランフォリンクスの群れに釘付けになっていた。
 群れがすっかり宙に浮くと、羽ばたきは途切れがちになり、ガラス壁に沿ってふわりと向きを変える。賑やかな鳴き声は変わらないが、水を叩く音や水滴の動きがなくなるとずいぶん静かに感じる。
 群れはガラスの茜空を横切って、私達の後ろに周り込む。
 そして、黒いクチバシを真っ直ぐ前に向けて迫る。
 橋を越えようと浮かび上がると、左右の翼の白が胸でつながっているのが見える。
 三十を超える大小の薄橙の翼が、私達の頭上の夕闇を覆い隠す。
 これを見るとき、私の心はランフォリンクスの本当の生息地にいる。
 そしてランフォリンクスはもう半周もすると、各々の行き先を目指して小さな集まりに分かれていく。
 再び水面に降りて休んでしまうものもいるが、多くは低く滑っていく。
「あの群れを見てください」
 獲物であるレプトレピデスの居場所を探しているのだ。
 そして下顎で水面にいくつもの小さな引っかき傷を付ける。
 時折、その傷は大きくえぐられ、小魚が空へと引きずり出される。
「あれがランフォリンクスの狩りです」
 成果を得た若者は羽ばたきを強め、すみやかにその場から駆けていく。
「逃げないと年上の大きいランフォリンクスに取られてしまうこともあるんです」
 一応ひととおりランフォリンクスの行動をタブレットで動画撮影できたはずだ。従業員だけで独り占めせずに済んだことになるが、上手くいったかどうか。
 ランフォリンクスの群れがばらけることで辺りはますます静かになり、また別の音に気付くことができた。
「築道さん、あれを」
「ん?」
 紺色のクテノカスマ達が砂浜に現れていた。
 胸まで水に浸かり、長い頭部を水面に突き立てている。
 チャチャチャチャチャ、チャチャチャチャチャ。
 細い歯がびっしりと生えたクチバシのブラシで、水底をこすりながら波をたてる音だ。
 ときおり上を向き、少し間を置いてまた水面に向き直る。
「ああやって細かい歯で小さな生き物を捕らえているんです」
 獲物が泥に潜んでいても歯で濾し取ることもできる。ここでは隠された吹き出し口から流れ出したオキアミや人工飼料を集めているのだ。
 そうして、夜行性の翼竜達がそれぞれのやり方で餌を取るのをしばらく眺めた。
「動く物、だねえ」
 築道さんだからこその言い回しだ。築道さんがいつもにらめっこをしている放散虫はほとんど動かないのだ。
「はい、「動く物」です」
 ランフォリンクスは大きくゆったりと、しかしときに激しく。クテノカスマは小刻みに継続して。動く物、動物の世界がここにある。
 これはずっと前に私が見ていたものに似ている。
 中学生の頃の、夏の夕暮れ。
 大きな公園を通り抜けると、池の上をたくさんのアブラコウモリが舞っていた。
 とても身近な何気ない場所なのに、野生の動物が広々と活動する世界がある。
 しかし、私はそこで見たものをひとに話せなかった。コウモリを良いものとして伝える方法を持たないという自覚があったからだ。
 その方法を手に入れたいという思いと、生き物が好きだという気持ちをともに抱いてきたのだ。
 ここで翼竜を見た人にはコウモリも違って見えるかもしれない。
 築道さんには、それほど言葉を費やさなくてもランフォリンクスとクテノカスマの魅力が伝わったようだ。
 むしろ私は築道さんから来館者へと放散虫の魅力を伝えなくてはならない。
「研究のほうはどうですか?」
 私がそう聞くと、築道さんは腕を投げ出して手すりにもたれかかった。
「ちっちゃい現実に引き戻す〜」
「あ、すみません」
 十分の一ミリの世界での苦闘から離れたくてここに夕空を見に来たのかもしれない。
「ディクティオミトラは二ヶ月前には殻の形成までいったけどね……、そこからがさっぱり」
「そうだったんですか」
「片手間で始めたアカントデスミアのほうが先に成功しそうだね」
 そもそも化石の放散虫を研究しているのは、飼育に成功すれば当時の環境を詳しく知るヒントになるからだ。
 ディクティオミトラ・ムルティコスタータはアルケロンのキングとツバサ達プラテカルプスの、アカントデスミア・サーキュムフレクサはイサムとナナ、イサナケトゥスの飼育環境改善につながる。
「アカントデスミアには現生種がヒントになるからね」
「イサムとナナにはよかったじゃないですか!」
 私は純粋に嬉しくてそう言った後から、築道さんが先にディクティオミトラの話をした理由に気付いた。
 築道さんは私が元々専門だったウミガメであるアルケロンのことを気にして、ディクティオミトラの成功をより望んでいると思ったのだ。
 築道さんはひと呼吸私を見つめ、それから微笑んだ。
「もうすっかり、全体のことを考えられる立派な解説員だね」
 閉館を知らせる放送が流れ、ランフォリンクス達は黄昏の中をさらに活き活きと飛ぶ。
 透ける翼に今日最後の光を宿し、まるで命にあふれた火の鳥である。
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