Lv100第五十五話
「レビヤタン -鈴音とイサムとナナ、アクアサファリわかやま(イサナラボ)-」
登場古生物解説(別窓)
 お盆真っ盛りの、午後四時。
 他のシーズンならラディオリウムホールに入ってくる来館者も途絶える時刻だが、今週ばかりはそうはいかない。
 「夕焼けアクアサファリ」と称して、夜八時まで開館を延長しているからだ。
 それを聞きつけて、こんな時間になってからも熱心なアマチュアカメラマンから浴衣のカップルまで訪れる。解説用の冊子やスマホアプリを配布する手も休まることはない。
 そんな中、それらを受け取るより先に話しかけてくる来館者が一組。
「あのう」
 腰の曲がりかけた老婦人と、その息子らしき中年男性のペアだった。
「ここにね、みずなみに関係あるものがいると聞いて来ましたのでね」
 婦人の言葉には、口頭で聞いても一瞬分からない単語が含まれていた。
 みずなみ……瑞浪?
「岐阜県の、瑞浪市でしょうか?」
「そうそう」
 婦人の横から息子さんが出て代わりに話し始めた。
「近くの水族館で、私達の住んでいる瑞浪市に関係ある生き物がこちらで見られると聞きまして。どちらに進めば見れますか?」
 やはりあの瑞浪市だ。イサムとナナの故郷のひとつ、瑞浪のことだ。
「それでは、直接案内をさせていただきます」
 どの展示に向かうにしろ、足の不自由なお年寄りならそうすることになっているのだ。
「別館に、瑞浪市の化石のおかげで展示ができるようになりましたクジラがいますので。そちらに向かいましょう」
「クジラ……!?」
 親子は揃って目を丸くした。

 本館の壁と白い砂浜に挟まれた、石畳の道を行く。
 一日中ラディオリウムホールにいた私には、少しだけ傾いた日の光が強烈だった。制帽のひさしがこういうときに役に立つ。
 婦人がゆっくりと歩む。段差などはないが、用心はしておかねば。
 別館はずっと向こうだが、砂浜はそれほど幅があるわけではない。
「海がよく見えるわねえ」
「良い天気で、ちょうどよかったですね」
 空は快晴、風は弱い。良い日和だというだけでなく、これから見る展示にはベストコンディションだ。
 ただ婦人のことはうちわで扇いでいないといけない。
「海が綺麗で本当に良かったわあ」
「瑞浪からこちらにいらっしゃるのは大旅行ですね」
 岐阜県からなら手前の三重県、いやむしろ日本海側のほうが近いと思うのだが。
「親孝行のつもりで、」
 息子さんが答えた。
「どこか旅行に行こうかと聞いたら、海がいいと言うので。南国らしいところにしようと思いましてね」
「お選びいただけて光栄です」
「海も水族館も何十年ぶりかしらね」
 二十年かそれ以上遡ったら、古生物もまだ珍しい時代になる。
「大昔の生き物をご覧になったことはございますか?」
「テレビ以外だと、今日が初めてよ。ここのこともさっき教えてもらうまで知らなくって」
「一日に二ヶ所も水族館に行くのは、と思ったんですが、せっかくなので」
 どうやら、親子はそれほど生き物の知識に関心があるわけではないようだ。
 それを踏まえて、私の中の「圧力」を調節し、案内する道筋の細部を決める。
 本館の壁が途切れたところに、海側に突き出した休憩所がある。
「そこで一休みしましょうか」
 潮風で色の抜けた木のベンチに座ると、海がよく見える。
「私、ずっと岐阜でねえ」
「はい」
「海って、素敵だと思うけど、ちょっとだけ怖くてねえ」
 ここから水平線まで、ちょっとした堤防ぐらいしか挟まるものがない。
 はるかな大海原から直接やってきたそよ風も、婦人にとって案外刺激が強いのかもしれない。
「私どもがついておりますので、ご安心ください」
「ありがとうねえ。係員さんは船乗りさんみたいねえ」
 婦人は紺色の制帽とベストを見ながら言う。
 もし婦人を順路どおりルーラーズサファリに連れて行ったら、トライアシックビーチの海底通路やクレタシアスオーシャンのトンネルで腰を抜かすかもしれない。
 別館に絞って正解か、かえって別館のほうが怖がるか。
 婦人はふと砂浜に視線を落とすと、手すりをつかんで力をかけようとした。それを察した息子さんが先に立ち上がり、砂地に下りてしゃがんだ。
「貝殻?」
「うん。自分で拾うからいいよ」
 息子さんは婦人に手を添え、婦人は手当たり次第に貝殻を拾っていく。ふふふ、と笑いを漏らしている。
 私もその横で、巻貝を選んで拾った。
 そしてタブレットのケースに挟んであったチラシを折って袋を作り、婦人に渡す。
「ありがとうねえ」
 婦人は目尻を下げきって受け取った。
 貝殻は綺麗で丈夫な上、海ならではのもので、お土産にはぴったりだ。しかしこれほど婦人の気に入るとは思っていなかった。
 少し風向きが変わり、かすかに甘い香りが漂ってきた。私と婦人は同時に風上に振り向く。
「ハマユウの香りですね」
「はまゆう?」
「向こうの白い花です。あの背の高い草の上の」
 幅広い剣のような大きな葉に囲まれて、白いヒガンバナを人の背丈まで大きくしたような花が咲いている。
「ああ、あれがはまゆうなのねえ。なんだか海に関する言葉なのは知ってたんだけど、あんなに立派な花なのねえ」
 婦人はとても感心して、近くで見てみようと休憩を取りやめた。
 ハマユウが咲いているのは順路の先側だ。
 花を眺めたらそこからは、道沿いに並んだ放散虫のオブジェに導かれ太古の世界へ向かう。
 トライアシックビーチにもあった、飾り立てられたコーンだ。金網で作った長いヒョウタンのようなポドキルティス・ミトラが三対。
 そして、鉄の棒を溶接して組み上げられた、とうもろこしのようなシルエットのチャララ。ミトラとはだいぶ違って見えるが、同じポドキルティス属だ。
 チャララをまた三対過ぎると、鉛筆を骨組みで表したようなゲーテアナが一対、別館の門を守っている。
 しかし、これら始新世への導き手には申し訳ないが、今回ばかりは逆側から、中新世の世界に向かうのだ。
「ご足労いただき、大変お疲れ様でした。ここが別館のイサナラボです。瑞浪のクジラは裏手の海にいますので、こちらへ」
 イサナラボを取り巻くウッドデッキを左に進み、建物の裏にまわる。
 別館とはいえ和歌山といえばクジラということで、本館に負けない人気がある。順路を辿ってくる来館者をかわし、婦人のゆっくり通れる道を確保する。
 その先は幅広いデッキ、そのすぐ下は、青い海だ。
「わっ、わあ……」
 婦人は先のほうへ進むのをためらう。私は婦人の手を握り、息子さんは肩と背中に手を添えた。
 手すりにはそれなりの数の来館者が取り付いている。入り江に住んでいるものが背を見せるのを待ち構えているのだ。
 私達がデッキの中ほどまで進んだときだった。
 水面からブシュウと霧が吹き上がった。
 来館者が歓声を上げるうちに細かな水しぶきがそよ風に混ざり、こちらまで届く。
 親子は口を丸く開け、潮の香りを浴びていた。
「今潮を吹いたのが瑞浪で化石が見付かっているクジラの、イサナケトゥスです。オスのイサムのほうだったみたいですね」
 親子はそろりと手すりに近付き、水面を覗き込む。
 ターンしてきたイサムの六メートルに及ぶ陰が、少し離れたところを通り過ぎる。
 ヒゲクジラ特有の、生き物というより船を思わせるシルエット。
「最近クジラの化石が見付かったっていうニュースがありましたけど、あれですか」
 息子さんの質問。
「あの化石にごく近い種類です。瑞浪の他に三重でも化石が見付かったんですけど、瑞浪の地層が出来た頃には日本は今より小さな島の集まりで、紀伊半島の東は名古屋から瑞浪まで海だったんです」
「そうか、うちからここまで海でつながってたんですね……」
 息子さんはゆっくりとうなずきながら言った。
「イサナケトゥスはシロナガスクジラの仲間ですけど、その頃はこのイサムみたいに小さいものが多かったようです」
「これで大人なんですか」
「クジラの十歳ですからね」
「いやあ、充分大きいわあ!他の水族館で見たのは大きめのイルカみたいだったもの」
 婦人が声を上げた。
 普通水族館にいるクジラといったらゴンドウクジラ、つまりマイルカ科の大型種だ。イサムの体格は彼らに勝るとも劣らない。頭も大きい。
 すると、飼育員の小山田さんがデッキに現れるのが見えた。
「あっ、おやつの時間ですよ。ちょうどよかったですね」
 小山田さんの押している台車には、一メートルほどもある丸太のような、黄土色の円柱が二つ乗っている。巨大なちくわ型をしたフロートの片方を閉じ、水に浮かぶ容器にしたものだ。
 ちくわに詰め物をしたような形状から、「チーちく」と呼ばれている。
 小山田さんは手すりの一部とデッキの縁の間に確保されたスペースに入り込み、丸い目印の付いた棒を高く掲げ、ホイッスルを長く吹いた。
 それを察知して、イサムは頭を水面に出したまま、より岸辺に近付いた。木の葉形をしたイサムの頭をさざ波が囲む。
 さらに向こうにもう一つ、同じ形の頭が現れた。
「メスのナナも来ましたね。あっ、でもイサムから目を離さないほうがよさそうですよ」
 私は親子だけでなく周りの来館者にも案内になるよう、大きめの声を出した。
 小山田さんはイサムの行く手めがけて、チーちくを投げ落とした。
 すぐにイサムの口先が水面から躍り上がる。
 水滴をまとった下顎をチーちくに叩き付ける。
「わっ、わあー!」
 婦人は気圧されて手すりから身を離す。
「驚かせてしまいましたね。あの浮きの中におやつが入っていて、イサムは遊びながらおやつを出させようとしているんです」
 チーちくは巨体と波に揉まれて揺れ動き、一方に開いた穴からピンクの水が漏れ出す。オキアミの混ざった海水である。
 イサムは口を素早く開いてその水をすくい取る。そして余分な水を吐き出しながら、頭を上下に揺さぶってまたチーちくをいたぶる。
 さらにそれでは足りないと、再び顎をチーちくに叩き付ける。
「クジラの遊びはすごいわねえ……」
「あっちは大人しいですね」
 息子さんが気付いたとおり、ナナは軽くチーちくをつついて水をすくうことを繰り返すだけだ。
「ナナはイサムと比べると落ち着いた性格ですね。遊んだり何か変わったことがあって見に行ったりするときは、大体イサムのほうが大胆です」
「クジラにも個性があるのねえ。なんだか可愛く見えてきちゃった」
 さっきまでイサムにおののいていた婦人だが、もうすっかり優しい目をクジラ達に向けていた。
 チーちくの中のオキアミが減ってきて、イサムも落ち着きつつある頃。手元のタブレットに通知が入った。
 イサナラボの入り江にトウゴロウイワシとおぼしき魚の群れが近付いてきている。
「水中の様子を見るチャンスのようです!」
「水中?」
 私は婦人を、デッキの陸側にある館内まで導いた。
 私の言葉を聞きつけた他の来館者が何組か、私達の横を通り階段に抜ける。それ自体は望むところなのだが。
 幸い、少し奥まったところにあるエレベーターにはすぐに乗れた。
 扉が開くと、入り江の底と同じ深さ。
 高さ十メートル、幅二メートルの縦長の窓が三つ、太い柱を隔てて並んでいる。
 本物の海の中がガラスの向こうでお出迎えだ。
 婦人が息を呑むのが聞こえた。
「怖いでしょうか?」
「だ、大丈夫よ」
 婦人の背に手を添える息子さんも、やや緊張しているようだ。
 私達は海中観察窓の前まで歩み出た。
 本日の透明度は十五メートルに達するが、そんなものでは対岸には届かない。海の奥は青くけむっている。
「あらっ、可愛い!」
 窓のすぐそばに野生のハリセンボンがやってきていた。怖いもの知らずで、観察しやすい生き物のひとつだ。愛嬌の感じられる風体で婦人の緊張をほぐしてくれる。
「向こうに魚の群れがいますよ」
「どこ?あっ、いたわ」
 小さな銀色のきらめきがうっすらと現れた。トウゴロウイワシだ。
 やがてきらめきが増え、銀の紙吹雪が吹き付けるかのように見えてきた。
「小さい魚もすごいわねえ」
「あの群れをイサムが追いかけてきますよ。あっ、来ました!」
 トウゴロウイワシの群れの一部が黒く陰る。
 それは濃く大きくなり、縦に伸びる。
 イサムが群れを一網打尽にしようと口を開いて突撃したのだ。
 婦人が深く長く嘆息を盛らし、息子さんがその背中を受け止めた。
 いくらかトウゴロウイワシを得たらしきイサムは、口を閉じて喉をしぼめ、向かって右に旋回し群れに再挑戦していく。
 イサムはゆっくりと群れを追っていて、それほど真剣でないように見えた。おやつのすぐ後だからだろう。むしろそのおかげで、イサムの泳ぐ姿が見やすいのだが。
「すごいわねえ……。本当に、クジラっていう感じのクジラねえ」
 ナガスクジラ科と近縁なだけに、横から見るとますます絵に描かれるクジラに似ている。
 背中は黒、腹は白。
 包丁のように鋭くすっきりとした横顔、小さな黒い目、今のクジラほどくっきりしていないがうねの走る喉。
 長く張りのあるたくましい体。細長い胸鰭。
 後からやってきたナナもイサムと一緒になってトウゴロウイワシの群れを追い始めた。
 しかし、実は先にイサムに寄り添っていたものがある。息子さんがそれに気付いた。
「何か、機械みたいなものが付いていってますね」
「あれは観察用の水中ドローンです」
「ドローン?」
 ビート板をふっくらと分厚くしたようなそれは、イサムの顔の真横を少し離れて進んでいる。
「イサナケトゥスがここにいるのはイサナケトゥス自身の研究や展示のためだけではなく、野生のイルカやクジラを観察する方法を研究するためでもあるんです。そのうち野生のもっと大きなクジラも、あんなふうに撮影できるようになりますよ」
 私は観察室の壁にかかった大きなディスプレイを指差した。
 そこでは、特に良く録れたイサムの漁の様子が上映されている。
 口を開いたままトウゴロウイワシの群れめがけて突進し、光る小片を無数にかき消してしまう。観察窓から直接見るよりかえって鮮明で、細かい躍動を捉えている。
 おお、と息子さんが声を漏らした。
「うまくいけば人間の都合や想像の全く入らない、本物の野生のクジラやイルカの様子が水族館で見られるようになりますよ」
「すごい。飼わなくてもよくなるんですね」
「部分的にはそうです」
 野生個体の観察が全面的に飼育を置き換えられるとは言い難いが、飼育による負担を減らすことも目的の一部には違いない。
「じゃあ、イサムくん達は他のクジラやイルカのためにお仕事をしてるのね」
「そういうことになりますね」
 結局トウゴロウイワシの群れを逃したのか、イサムが気の抜けた様子で戻ってきた。婦人はそんな彼に向かって手を振る。
「がんばってねえ」
 もちろん、婦人の声援に対してイサムやナナがどうこうすることはない。彼らの好きなように過ごしてくれればそれが一番だ。
 しかし、解説員である私は飼育員や研究員の努力の成果を来館者に伝えるだけでなく、来館者の声を飼育員や研究員に伝えることもできる。
 時刻は午後五時をまわっていた。
 日は傾き、水中は薄暗くなりつつあった。そろそろ二頭の姿がよく見えなくなる。
「他にも瑞浪の化石の生き物がいますので、ご覧になりますか?」
「ええ、是非」
 観察室から内側に順路を遡ると、まずはちょっとした博物館に出る。クジラの骨格が頭上にひしめく標本展示ホールである。
 「夕焼けアクアサファリ」の時刻で照明が減り、闇に骨が浮かぶ。
 全体を横切る、バシロサウルスの長大な脊椎が目を引く。
 その手前は新しいクジラだ。
 歯を失いかけたアエティオケトゥス、すっかり歯をなくしたイサナケトゥス、イサナケトゥスの拡大版のようなミンククジラ。一方には、カジキのような長い口のユーリノデルフィスに、見慣れたカマイルカ。アシカやアザラシの仲間のアロデスムスもいる。
 バシロサウルスより奥は、すでにだいぶクジラらしいドルドン、後ろ脚のあるアンブロケトゥス。すたすた歩けそうなパキケトゥスはテラスに立っている。
 しかし、せっかくのコレクションだが今回の目当ては頭上の骨格ではない。
 その下の、瑞浪を代表する古生物であるデスモスチルスの骨格と一緒に並んだ標本ケースや小型水槽だ。
「瑞浪の化石も展示しております」
 親子は一番に、生きたものがいる水槽を覗き込む。泥が敷かれ浅く水がたまった地味な水槽だが、
「あっ、やっぱり!」
 息子さんが声を上げた。
「ビカリアだ、これ」
「やっぱりそうよねえ」
 二人とも心当たりがあるようだ。
 ビカリアは、まるでロボットアニメに出てくるドリルのような、段と棘の付いた円錐形をした、赤褐色と黒の巻貝である。大きいものは十センチ近くなる。
 水槽の中の八匹は殻から小さな頭を出し、つやのある厚い落ち葉にとりついて、それをじっくりかじっている。
「ビカリアをご存知なんですね」
 そんな有名なものだっただろうかと私が驚くと、
「それはもう、瑞浪駅の電話ボックスに乗っかってますから」
「月のおさがりっていってね、神社にも祀られてるし」
「小学校の広報紙の名前もビカリアだったなあ」
 息子さんはそう言って遠い目をする。なんと瑞浪はビカリアだらけの町だったようだ。
「生きてるときは赤くて縞々なのねえ」
「白い貝だと思い込んでたなあ」
 それならちょうど化石がある。私はケースの中を指差した。
「この化石ですね」
「そうそう、こういうのです」
「あらっ、月のおさがりもあるわあ」
 月のおさがりとは、ビカリアの殻を天然の鋳型として出来た、真っ白くわずかに透ける、渦巻き形の鉱物に付けられた呼び名だ。
「瑞浪の博物館からの預かり物なんですよ。生きているものも」
「えっ、じゃあ瑞浪にも生きてるビカリアが?」
「はい。博物館でご覧になれます」
 古生物の生体展示を見慣れていない親子にとって、これは驚くべきことだったらしい。
「子供の頃行ったきりだったからなあ。知らない間にそんなに進んでたんだ」
「帰ってからの楽しみができたわねえ」
 遠くからやって来た来館者が、思わぬ形で地元のことを知ることになった。
 地域のものを預かることは、その地域とつながる窓を得ることなのだ。
 一見どっしりした四足獣に見えるデスモスチルスの骨格の周りに、放散虫ランプロキクラス・マルガーテンシスを模した照明が灯った。
 洋梨に似た胴体は金網で出来ていて光を通す。てっぺんの角はぬるりときらめく透明樹脂だ。
「こういう網網のがたまに置いてあるけど、これも化石の何かなのかしら」
 婦人は館内に配置された放散虫の意匠に気付いていたようだ。
「はい、これは瑞浪の地層から見付かった微生物の化石の形です」
「微生物!?」
「とても固いもの、例えばガラスで殻を作る微生物がいて、こういった岩の中に残ることがあるんです」
 標本ケースの端にのっぺりと横たわるのは、瑞浪層群・生俵層の泥岩である。
 その上には、各種の放散虫の模型が、踊る小人のように並んでいる。
 ランプロキクラス・マルガーテンシスだけではない。∞字のアカントデスミア・サーキュムフレクサ、クモの巣のようなエンネアフォルミス・エンネアストルム、一本角と三本脚のリクノカノマ。
「今も太平洋に住んでいるものの仲間もいますよ」
 顕微鏡映像の中で、生きたアカントデスミアは殻の中にオレンジ色の粒をぎっしり抱えている。共生藻である。
「こんなのが大昔から残ってるなんて……、考えたことなかったわあ」
 実のところ私も、アクアサファリに来るまでは婦人と全く同じだった。
「こういう形の微生物がいて、とても小さな化石があるということだけ覚えてくだされば嬉しいです」
「そうねえ、あんまりものすごいことばっかりで何がなんだか」
「もう一種類、瑞浪の生き物がいますから、とりあえずそちらを見ておきましょうか」
 息子さんは勘付いたようで、デスモスチルスの骨格を指差した。
「もしかして」
「そのとおりです。デスモスチルスもあちらに」
 標本展示ホールをさらに遡ると、大型水槽に囲まれた広間に出る。
 イサナケトゥスの同輩である海獣、デスモスチルスの「テツオ」も、そこで泳いで暮らしている。
 普段より少ない照明の中で浮かび上がるのは、海獣然としたスタイルの頭部から段差なく続く、丸々とした胴体。水かきのついた前脚、平泳ぎの姿勢になった後ろ脚。
「あらっ、こういうのだったかしら?」
「なんか思ったのと違うね」
 それが親子の、自分達の町で一番有名な古生物と対面した率直な感想だった。
「お二人ともテレビなどでご覧になったことは?」
「あったようななかったような……」
 恐竜でない古生物は案外そんなものかもしれない。
 そういえば、勉強のために瑞浪に行ったとき「デスモスチルスの絵がいっぱいあるなあ」と思って見ていたのは骨格やマスコットだった。
 元々デスモスチルスはカバのようにのし歩く動物だと思われていたのである。飼育拠点が少ないこともあり、昔からデスモスチルスの、骨格に、親しんでいた瑞浪でのイメージを塗り替えるに至っていないようだ。
「本当にデスモスチルスなんですよね?」
「はい。こちらは以前に抜けた歯です」
 水槽の前には歯の標本が展示されている。
 ふっくらしたマカロニを並べたように見えるそれは、デスモスチルスに特有のものである。
「ああ、そういえばデスモスチルスの歯ってこういうのだった気がします」
「疑ってごめんなさいねえ、会えてよかったわあ」
 浮かびながら少しずつ向きを変えるテツオの尻に、婦人が声をかけた。
 親子はしばらく、餌や暮らしぶりのことなどを私に聞きながら感慨深そうにテツオを眺めた。博物館にはテツオ達デスモスチルスの映像を届けているが、博物館以外からも瑞浪市に生きたデスモスチルスの様子を伝えたいものだ。
「せっかくだから他のも見てみたいわ」
「では、引き続きご案内いたします」
 私にとっても、ただ退館まで案内するより嬉しい誤算といえた。
 イサナケトゥスのような新しいタイプのクジラやデスモスチルスの仲間が現れた頃、他にも海で暮らし始めた哺乳類がいた。
「アシカやアザラシの仲間で、アロデスムスです」
「あらっ、可愛いわねえ」
 アロデスムスのメス、カレンの姿は少し目と後ろ足の鰭が大きいアシカといったところだ。水槽が少し暗くなったくらいではおかまいなしで、全ての鰭を使い分けてひらひらと水中を舞う。
 今の鰭脚類とほとんど変わらないように見えるので、きちんと理解してもらうとしたら分類の話をしなければならない。
 水族館自体何十年ぶりの婦人には、海獣の可愛らしさを大事に味わってもらうことが優先だろう。
 順路を逆に辿っているので、始新世のものがいる水槽に向かおうとしているところに中新世のリクノカノマやランプロキクラスのレリーフが現れた。
「これはイサナケトゥスよりだいぶ前のクジラで、ドルドンといいます」
「あら、けっこう普通ねえ」
 ここでも特に大きな水槽でゆったり泳ぐドルドンのオス、ラシードの五メートルの肉体は、長く滑らかでたくましい。半円形の尾鰭まで備えて、今のイルカやクジラと大差ない。
「海で暮らすのはけっこう大変なことなので、クジラは早いうちに泳ぎがうまくなったようです」
 ただし、今のクジラだったら何もない体の途中に、下向きの棒が一対出っ張っている。後ろ脚である。
 頭は平たく、目から先は尖っていて、上顎の中央に鼻がある。額の出っ張ったハクジラとも、顎を濾過装置に変えたヒゲクジラとも異なる。
 前脚の鰭は尾鰭ほど出来上がった印象でない。浮き出た指の凹凸と、わずかに見分けられる肘がアシカの前脚を思わせる。
 ラシードの水槽には先客の姿があった。とても立派なカメラをかまえた壮年の男性である。
「こんばんはー」
「ああ、こんばんは」
 軽く挨拶を交わし、彼はすぐ撮影に戻る。
「あのかたは?」
「ドルドンのファンのかたです。よくいらっしゃるんですよ」
「そんなにすごいものなのねえ」
「クジラの歴史の中でも重要な種類ですからね」
 ラシードのファンの男性のようにそのポイントをよく理解している人ももちろんいるが、婦人に対しては細かい説明はふさわしくない。
 ラシードの水槽からさらに遡ると最後、いや最初の展示だ。
 ゆるやかなスロープ沿いに横たわるのはクジラの歴史のごく始まりを現わす、半水槽である。
 土の長い斜面の下半分が水に浸かっている。
「クジラは昔、陸を歩いていたと聞いたことはおありでしょうか?これがそのまだ歩けるクジラ、パキケトゥスです」
 水中に立った岩の間に、大型犬ほどの動物の長い胴体が潜んでいる。メスのブシュラのようだ。
 水面下では細い四肢で立っている。
 犬ではありえないほど長い頭は、ほとんど鼻筋しか水上に見えていないにも関わらず、その中に両目と小さな耳がきっちり収まっている。
「わあ、すごい寄り目」
「水の外を見張るのに便利なんです」
「あっ、ねえ、係員さん。思ったことがあるんだけれど」
「はいっ」
 なんと、婦人が自ら質問を発しようとしている。
「最初のほうにいたのは瑞浪の生き物だったでしょう?これもどこかから来たのよねえ」
 地域に注目して見始めたからこその疑問である。
「パキケトゥスはパキスタンの生き物です」
「ああ、そのパキなのねえ」
 私は順路の先、自分達の来たほうに目をやる。
「さっきのドルドンはエジプトで、アシカみたいなアロデスムスはアメリカからです」
 それを聞いて婦人も、あんぐりと口を開けながら振り向いた。
「和歌山に来たと思ったら瑞浪の生き物がいて……、今度は、世界旅行に来たみたいねえ」
 婦人はそう言って、旅行に連れ出してくれた息子さんに笑顔を見せる。
 親子は、必ずしも生き物に興味があるわけではなかった。しかし、このイサナラボで表現している海の世界のことは楽しんでくれたようだった。
 時刻は六時半前。予想外にじっくりと見たので、良い時刻になっていた。
「上の、最初に見たクジラのところに戻ってみましょう」

 入り江は西からの夕日を真っ直ぐ受け止め、空と一緒になって黄金色に染まっていた。
 紺色のさざ波が小さく立ち上がっては、その先が白く光を放つ。
 数えるほどに残った他の来館者も、もう言葉を発しない。この空間では光だけでなく潮騒にも浸るべきだとわかっているのだ。
 イサムとナナの背が金色の膜を割いて現れた。
 立ち上がった潮は、夕日を受け花木のように染まる。
 婦人の足でも閉館に間に合うぎりぎりの時間まで、私達は夕日と向き合った。
 やがて、親子は深々と礼をして、アクアサファリを後にしていった。
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