Lv100第五十四話
「フライング・ダッチマン -鈴音とキング、アクアサファリわかやま(サバイバルロード)-」
登場古生物解説(別窓)
 自由研究応援ガイドツアー上級編の参加資格を見事獲得した男の子に、簡単な説明をする。
「上級編といっても、この後の順路まで通して案内いたしますと皆さんの集中が切れてしまうので、前後に分けているだけなんですよ」
「じゃあ、合格って」
「今生き残っているものがルーラーズサファリにいなかったことに気付くくらい、集中を保ってご覧になっていたかどうかの確認だったんです」
 何人残っても本当はかまわないのだ。彼一人しか残らなかったのはむしろ寂しいことであった。
「合格したかた以外も聞いていただいてよい内容なので、通りすがりのかたが合流することも受け付けています。ご了承くださればと思います」
「分かりました」
 彼は快く返事してくれた。かなり利発そうな少年であった。ガイドツアーの参加証には「田辺」と名前がある。
「それで、その、ここまでにいなかったものがあると思うんですけど、この先の順路に……」
 何のことを言わんとしているのか私にはすぐ分かった。
「はい。サバイバルロードの終わりのほうに」
 ひいきはいけないと思いつつ、私もそれを案内できることにわくわくせざるを得なかった。

 サバイバルロードは、ルーラーズサファリと違ってなんの情景も再現していない。暗い順路の右壁に、四角い水槽が真っ直ぐ並んでいるだけだ。
 床には長い三角形の光が横に三つ並んで投影され、順路の行き先を示している。
 ただの矢印ではない。白亜紀後期の放散虫、ディクティオミトラ・ムルティコスタータだ。
「ここでは、大きな爬虫類が海で栄えていたジュラ紀や白亜紀にいたもののうち、今も生き残っているグループのものを見ることができます。例えば、こちら」
 最初の水槽の中で、丸く大きな寒天質が白く照らされている。
「ジュラ紀のクラゲ、リゾストミテスです」
「えっ」
 田辺君にとってあまりに意外だったであろうことが見て取れた。
「今のクラゲなのかと思いましたか?」
「あ、はい。変わったところもないし、化石に残らなそうだし」
 そう思うのも当然である。大抵の来館者は、まさかこれは古生物ではないだろうと思ってリゾストミテスの前を通り過ぎていく。
「そうですね。今のエチゼンクラゲにそっくりですし、死んでも残りそうな固い部分は全くありません。ですが……」
 一歩進むと、展示物とパネルが水槽と同じ奥行きに設置されている。
 板状の石の表面に、凹凸が刻まれている。二重丸の内側が膨らんでいて、放射状に枝分かれした溝が走る。それが砂の上にクラゲが残した痕跡であることは、パネルの図解を見れば一目瞭然だ。
「そっと砂に埋もれれば、柔らかいクラゲでもこうして化石を残すことができるんです」
 田辺君はパネルの図解に見入り、スマホで写真を撮った。
「あ、この図はご自宅でも解説アプリで見られますので」
「そうなんですか。ここまであんまりパネルがなかったので、アプリにはないのかと」
「サバイバルロードでは解説をできるだけ読んでいただきたいということで、パネルも一緒に並べているんです」
 ルーラーズサファリではすっきりした空間が優先されているが、サバイバルロードでは嫌でもパネルが目に入る。
「さて、ジュラ紀には今とほとんど同じクラゲがいましたが、こちらの白亜紀のサンゴも今とほとんど同じです」
 漂う半透明のクラゲから一転して、緑色の小石のようなものが水槽の中心にたたずんでいる。隣のスペースに置かれた化石とあまり変わらない見た目だ。
「串本にもいるキクメイシというサンゴの仲間です。ただし、化石が採れたのは岩手県です」
「えっ、寒い岩手で!?」
 これを察してくれたおかげで、ガイドが一方通行にならずに済む。
「当時は日本列島がまだ出来上がっていなかったんですが、気候もだいぶ違ったようです」
「岩手も昔は温かい海の底だったんですね」
「別の生き物の歴史が分かる化石も岩手から出ていますよ。このウミユリです」
 次の水槽で待ち受けているのはイソクリヌス・ハナイイ、コスモスを思わせる、細い茎の先に丸い傘を広げたものだ。
 ただし傘は網目状、たくさんの短い枝に葉は生えていない。
「こう見えてヒトデやウニの仲間なんです。このあたりの生き物も意外と面白いですよ」
「僕、深海に興味があって。ウミユリも見覚えあります」
 あまりに丁度良かったので、ああ、と声を上げそうになった。
「今では深海の生き物ですね!ですがこれの化石は、サンゴと同じ浅い海の地層で見付かったんです」
「これも住処が変わったんですね。温かければ浅いところに暮らせるんですか?」
 とてもいい質問だ……ほどほどに間違えているので。
「それだと今冷たい深海にいるのと合わなくなってしまいますね」
「あっ、そうか……」
「ウミユリの見付かる地層と見付からない地層を調べると、水温や光といった環境より、周りの生き物に原因がありそうだということが分かったんです。その原因を作った生き物のひとつが……」
 話しながら進んでいくと、ようやく顔のある生き物の登場だ。
「魚だったようです。小回りをきかせて泳ぐ魚が増えるにつれて、簡単に食べられがちなウミユリは浅い海から姿を消していきました」
 素っ気ない薄水色の水槽で、指ほどの大きさをしたものがいくつも元気良く行き交い、鱗が銀色に眩しく輝く。
 似たように見えるが二種類、がっしりしたセデンホルスティアとスマートなレボニクティスがいる。
「白亜紀の魚の化石はレバノンで特にたくさん見付かっているので、ここに展示しているのもレバノンの魚です」
「あ、なんとなく川魚みたいですね」
「普通の魚の中では原始的なほうですからね。今海で多数派になっているスズキの仲間とは違った感じがしますね」
 これらは水槽の横に化石だけでなく、標本を保存液に浸した壜もずらりと並んでいる。
 その標本は、今水槽にいるのとは似ても似つかない、頭がとても小さく体が半透明の魚なのだ。
「ウナギと同じような成長の仕方をするので、ウナギの完全養殖を実用化する手がかりになるかもしれないということで研究が進められています」
「すごい」
 田辺君が感心する後ろから、他の来館者がついてきているのが見えた。
 もしかしたら田辺君が興味を持ち、よく受け答えをしてくれているおかげで、他の来館者にも面白そうに聞こえたのかもしれない。
 次のやや幅広い水槽にはもう少し様々な魚がいる。
 スコムブロクルペアは子孫であるニシンのように上のほうで群れをなし、赤いまだら模様のネマトノトゥスは砂の上で旗竿のような背鰭を立てる。岩の間にはキンメダイの仲間、真っ赤なスティコケントルスが潜んでいる。
「スズキの仲間はまだ種類が少なかったんですが、それ以外の魚がかなり揃っていたんです」
 このあたりは今いてもおかしくない普通の魚という感じだ。
 一方では、いかにも生きた化石というものも魚の中には存在する。
「こちらはシーラカンスの一種、マクロポモイデスです。今生き残っている種類のシーラカンスに特に良く似ているもののひとつですね」
 おお、とどよめく声が聞こえてきた。もちろん深海に興味があるという田辺君が一番真剣に見入っている。あのシーラカンスと瓜二つの、しかしだいぶ小さな魚が明るい水槽にいるのだから目が離せないだろう。
 床から天井まで届く大きな水槽にいるのもれっきとした古代魚だが、シーラカンスとは逆にだいぶ馴染み深い姿をしている。なにしろ今いるようなサメそのものだ。
 大柄なクレトラムナが尖った鼻先から目の前をかすめてこちらを一瞥、皆をおののかせる。
「クレトラムナはいかにもサメらしいサメですね。サバイバルロードにいる魚の中でこれだけは日本の福島のものです」
 また、底にじっと潜んでいるものもいる。エイとサメをつなげたような姿だ。
「底にいるリノバトス・マロニタはサメに似た後半身をしたエイですが、これととても近い種類が今の海にも普通に暮らしています」
「こっちはさっきの古いサメとは違うんですね!」
 プラテカルプスと一緒にいるメリストドノイデスは、今のサメより古いグループのものだった。
「そういうことです。しっかり見ておいた甲斐がありましたね」
 まだまだ生きた化石が続く。
 砂の干潟を再現した水槽でうろつくのはカブトガニだ。
「ジュラ紀のカブトガニ、メソリムルスは、すでに今のカブトガニとほとんど見分けがつかない姿をしていました」
 化石と並べてある標本は現生種アメリカカブトガニだが、生体とどう比べても違いが見付からない。といっても……、
「けっこう、今と変わらないものが多いんですね」
 こう続くと慣れてきた頃だろう。
 そこで次のキマトセラスである。オウムガイの一種で、殻にはたくさんの細かい筋がある。
「オウムガイも有名な生きた化石ですね。アンモナイトとの違いが分かりますでしょうか?」
 田辺君は黙々と浮かぶキマトセラスにじっと向かい合った。
「蓋みたいなものがあります。それと、黒目が小さいです」
「いいですね!オウムガイには頭巾といって蓋の役割をする部分があります。目もアンモナイトと違って簡単な造りになっているんです」
 深海に興味があるなら、むしろアンモナイトを見たときに違和感として気付いたのかもしれない。
「化石のままでもオウムガイとアンモナイトの殻を見分けることができますよ」
「もしかして、さっきすごい形になってた部分ですか?」
 これは鋭い。やはりさばくところを見せてよかった。
「そのとおりです!どちらの殻の中にも壁がありますが、アンモナイトの壁は複雑に折れ曲がっています」
 オウムガイとアンモナイトの二つに切った生殻がずらりと並んでいる。三畳紀のコルンビテス、ジュラ紀のペリスフィンクテス、白亜紀のゴードリセラス。おおむね後のほうのものほど壁が細かく曲がっている。
 一方、キマトセラスと現生のオウムガイの殻の壁はつるりと丸い形をしている。
「殻の構造を工夫して様々な環境に適応したアンモナイトでしたが、生き残ったのは安定した深海を選んだオウムガイのほうだったようです。さて、」
 アンモナイトの生殻は標本として展示するだけのものではない。ジュラシックアイランドで行われていたことが、ここでも小さな水槽で行われている。
「アンモナイトがたくさんいた当時、他の生き物もアンモナイトがいるという前提で暮らしていました」
 頭の大きなエビのエリオンは、細い腕をペリスフィンクテスの殻に突っ込み、ハサミで器用に餌をつまみ出している。
 一方では横倒しになって砂の上を這うダクティリオセラスの殻がある。ヤドカリのパラエオパグルスが住み着いているのだ。
「こうした見慣れた感じの生き物も、最初は今いない生き物に囲まれて暮らしていたんです」
「今いそうな生き物ばっかりで、忘れそうになってました。あっ、あれはさっきの?」
 次の水槽には一度見たら忘れられないS字のアンモナイト、プラビトセラスが直立で浮かんでいる。
「はい、いずみの船内にいたプラビトセラスですね。ただし、ここの主役はプラビトセラスではなく……、」
 その殻には、ところどころに爪程の何かが貼り付いている。
「プラビトセラスに寄生していた貝です。今もいるナミマガシワの仲間です」
 ナミマガシワの化石の隣には、工芸品が置かれている。
 貝殻をつなぎ合わせ、バラの花にしたものだ。貝殻は光沢の強い白や黄色やオレンジ色で、いびつな形をしている。これこそが現生のナミマガシワである。
 貝の花が観光客のカップルの目を引いたようだ。
「あっ、これさっきお土産屋さんにあったやつだー」
「こんな由緒正しいもんだったの」
 中生代からいるのが由緒正しいことになるのであれば、
「由緒正しい生き物は、身の回りにたくさん潜んでいることになりますね」
 イカやタコにしてもそうだ。
「アンモナイトが種類を増やしていったジュラ紀には、もうイカやタコの仲間が現れていました。こちらのプレシオテウティスもそのひとつです」
 プレシオテウティスは少し大きめのスルメイカに似た姿をして、五匹が少し斜めになって揺れている。しかし、
「イカやタコ、っていうことは」
「はい、プレシオテウティスはどちらかというとタコに近い、コウモリダコの仲間です!」
 そう聞くなり田辺君は水槽に貼り付いた。他の来館者も少しどよめいたようだ。
「どんなところがイカよりコウモリダコと同じなのか、教えてくれますか」
 古生物を再生する技術を応用しても現生のコウモリダコの飼育は難しい。目の前のものがコウモリダコの仲間だと聞けば深海ファンは目が離せなくなる。
「コウモリダコも腕に吸盤ではなく爪がありますね。アンモナイトやベレムナイトもそうです」
「あっ、確かに」
「それから重要なのは鰭ですが」
 プレシオテウティスの胴体の先には、菱形のえんぺらではなく、二対の楕円の鰭がある。
「コウモリダコも生まれたばかりのときは鰭が二対なんですよ」
 私がそう言うと田辺君は急に振り返ったので、タブレットで表示させておいたコウモリダコの幼体の写真を見せた。田辺君はその写真と、プレシオテウティスの鰭を交互にじっと見つめた。
「ここでコウモリダコに詳しくなるとは思わなかったです」
「さっきの魚もそうですが、古生物を知ることで今の生き物も知れることがたくさんありますからね」
 その後も少しだけ、プレシオテウティスの水槽の前にとどまった。合流した来館者の何人かは先に行ってしまったみたいだ。
「さて、次は白亜紀の和歌山にいたものです」
 縦長の水槽は三方に擬岩がはりめぐらされ、底には厚く砂が敷かれている。様々な甲殻類と二枚貝の暮らす場所を用意するためだ。
 擬岩の上のほうから、少しずつ違った二枚貝が鈴生りになって貼り付いている。水面近くから、ギザギザしたカキの仲間のラステルム、ムール貝によく似たヒバリガイの一種、角張ったナノナビス。
 グソクムシの仲間であるパラエガは指先ほどしかなく、そこらじゅう歩きまわっている。同じくらいの大きさのカニ、ニッポノポンは岩の隙間に隠れている。
 砂の上にはホタテに似た丸い貝、エントリウムが寝そべり、長いハサミを持ったエビのホプロパリア・ナツミアエが隣にくぼみを作って座っている。
 さらに砂に埋まったものまでいるので、アクリル板を差して窓との間に生き物を挟み、横から見えるようにしてある。アサリそっくりのレサトリックス、片方のハサミが大きいエビのようなカリアナッサ・サカクラオルム。
 ハボウキガイの一種だけは、埋まっているといっても大きすぎるのでアクリル板の外にいる。足ほどもある三角形の殻の、広い端だけ見えている。
「今の海の中だって言われてもおかしくないですね」
「和歌山に今いるものの仲間も多いですよ」
 しかし、砂の上にはアンモナイトの殻が落ちている。
「こういうところをアンモナイトも泳いでたんですね……、絶滅ってなんだったのか、よく分からなくなりそうです」
 白亜紀末の大量絶滅に対する見方を改めてもらうのがサバイバルロードの主旨なのだから、そう言ってもらえるとありがたい。それに、
「それを突き止めるための研究ですからね」
 田辺君が目を見開き、周りの来館者も納得した様子だった。
 和歌山の化石がずらりと並ぶ中、ホプロパリア・ナツミアエは一段高いところに置かれている。
 その背後には新聞の切り抜きが立てられている。田辺君より少し幼い少女が、展示されているレプリカの基になった化石を手にはにかんでいる。彼女こそホプロパリア・ナツミアエの発見者だ。
 生物と古生物の世界は万人に開かれている。

 一旦、水槽の並ぶ廊下が途切れる。
「この先の部屋には、大きな動物が絶滅しても海の生き物の世界は白亜紀から続いているということをはっきり示すものが展示されています」
 そう前置きして、小さめの教室ほどの広間に出る。
 そこでまず目に飛び込むのは、床に横たわる首長竜の骨だ。
 海底を模したジオラマの中で、三メートルのトリナクロメルムの骨はほこりのようなものに覆われている。
 さらに、巻貝や二枚貝、何か細長く枝分かれしたものなど、無数の小さな生き物が住み着いている。
 水族館としては特に露骨な、生の終わった後の表現である。田辺君を含め来館者が皆、面食らっているのが分かる。
 なんとなくでついてきていた来館者のうち数組が、そそくさと先に進んでしまった。
「ちょっと怖いみたいだから、行こっか……」
 子供連れがそう言うのが聞こえてしまった。
 この展示は、ここ数年の知見を反映して追加された、重要で最新のものである。そのせっかくの展示を、活かすことができなかっただろうか。
 しかし、田辺君はジオラマのほうに歩み出た。
 そしてしゃがみ込み、ジオラマに組み入れられている小さな生き物を見つめ、こう言った。
「これは、鯨骨生物群集ですか?」
 彼が深海に興味があって本当に助かった。
「そのとおりです!今の深海ではクジラの骨の周りにそれを分解する生きものが集まりますが、白亜紀にはすでに首長竜やモササウルス類の骨で同じことが起こっていました」
 そしてそれを指す用語がきちんとある。
「竜骨生物群集といいます」
 部屋の壁に展示されているのは、主にその証拠となる化石だ。
 しかし中には小さな水槽もある。
 ジオラマと同じように、骨がほこりのようなものに覆われ、小豆ほどのものが散らばっている。
「竜骨群集にいた生き物は、今鯨骨群集にいる生き物にごく近い種類です」
 田辺君は水槽を覗き込んだ。
「中の骨は小型の首長竜の脊椎で、小さな巻貝はハイカブリニナの一種です」
 私は水槽に沿えられたルーペをそっと手渡した。ちょうどガラス面に貼り付いたハイカブリニナがいて、田辺君はほぼ動かないそれに見入った。
「白亜紀のハイカブリニナの殻には網目状の出っ張りがありますが、大きさやシルエットは今のものとほぼ同じです」
「やっていることも同じですね」
「はい。ハイカブリニナのような竜骨群集の生き物は首長竜やモササウルス類が絶滅した後、クジラの骨に付くようになりました」
 私は話しながらそっと立ち位置を順路の先のほうに移した。
 田辺君はルーペを覗きながら大きくうなずいていたが、一瞬目を上げ、こちらに振り返った。
「クジラってそんなにすぐ出てきたんですか?」
 やはりというか、流石というか。
「とても良い質問です。首長竜が絶滅してから本格的なクジラが現れるまで、二千万年近くかかっています。竜骨群集の生き物は深海の湧き水でも暮らすことができますが……、もっと直接、鯨骨群集につながっている可能性があります」
 私の背後にはその謎の答えがある。
「さて、竜骨群集が直接、鯨骨群集につながっているかもしれないと言える理由。お分かりになりますか?」
 竜骨展示室に居合わせた来館者の皆に向けて声を発したが、田辺君にすでに心当たりがあることは分かっていた。
「ウミガメが、絶滅しなかったから。ですか?」
 私は一歩横にずれ、柱の上にかかげられた、小さなアクリルケースをあらわにした。
「お見事です」
 ケースの中身は、ウミガメの頭骨に小さな生き物がとりつくジオラマだ。

 黒い壁に囲まれた狭い空間から、開けた大広間の壁をつたうスロープへ。
 広間のほとんどを、光に満ちた水柱が占めている。
 クレタシアスオーシャンにはとても及ばないし、柱が目につくとはいえ、幅三十メートルの正十二角形、最大水深六メートルの大型水槽である。
 しかも、夏の日差しを存分に取り入れている。
 スロープの中程に差しかかったところで、正面のガラスに住人のひとりが現れた。
 目につくのは人の背丈ほどの長さがある円い甲羅だ。なめらかな皮で覆われ、鱗は真ん中に申し訳程度残っているだけだ。
「大きい」
 田辺君はそうつぶやいたが、すぐにそれは覆された。
 そのウミガメが横切った向こうに、はるかに大きな塊が浮かんでいたからだ。
 コマーシャルでトリを務め、ラディオリウムホールにも骨格が展示されている、アクアサファリの主。
「史上最大のウミガメ、アルケロンの「キング」です」
 完全に鱗のない甲羅、左右に垂らした長い鰭の手。
 太いクチバシと一体になった、箱状の頭。
 私達は水槽の正面へと足を速めた。
 しかし、急いでもキングはほとんど動かず、ただゆったりと水面近くに浮かんでいる。
「前までの海の爬虫類と、全然違いますね」
「首長竜やモササウルス類や魚竜はいつも活発に泳いでいますが、ウミガメは休んでいることが多いです」
 私にとって見慣れているのはウミガメのほうだったので、常に駆け回っているプラテカルプスやステノプテリギウスがウミガメと同じ爬虫類だという実感が未だに薄い。
 水槽の正面でキングを見上げる。
 全長こそクリプトクリドゥスのモリーやプレシオサウルスのサリーと同じくらいだが、頭上に覆いかぶさる分厚い円盤は、しみじみと、そして圧倒的なボリューム感を放つ。
 水槽の四隅には円形の台がある。高さ一メートル半と三メートルの二段になっていて、薄い青緑色をしている。
 今はさっき通り過ぎた一匹が、中段で寝ているところだった。
「あれは別の種類ですか?」
「はい、メソダーモケリスです。和歌山と地層がつながっている淡路島でも見付かっている種類です」
 すると、バックヤードの動きがタブレットに伝わってきた。
 段と柱の間に、水面から棒で餌を差し入れたのだ。
 キングの顔を見ると、首が向かって左に曲がり、目が下に動いた。
「隙間に挟まれた餌を取りに行くようです。すぐ近くで見られるので、先回りしましょう」
 三頭のメソダーモケリスは餌に気付いていない。より素早いメソダーモケリスの隙をついて確実にキングに餌を届けようという、バックヤードにいる飼育員の狙いどおりだ。
 左の柱を越えると、キングはこちらに向かって降りてきていた。
 差し渡し五メートル近くなる鰭に力を込め、頭をぐっと下げて潜ってくる。
 水面から刺さって躍る光の束の中で、幅広い影が膨らむ。
 宣伝で使われている映像はまさにこうした姿を捉えたものだ。
 柱のすぐそばまで、隣の柱を中心とする段が迫っていて、キングの全身は入れないが頭だけは突っ込める隙間がある。そこに降ろされた、ピンクの塊がキングのお目当てだ。
「この餌は何で出来てるんですか?」
「主に魚とエビ、それからアンモナイトや海藻も混ざっています。ウミガメは色々な生き物を食べるので、ここでもできるだけ色々な餌を与えるようにしています」
 話しているうちに、小さめの段ボール箱ほどもあるキングの頭が目の前に現れた。
 斜めに吊り上がって幾重にもしわが集まったまぶたの間で、真ん丸い黒目が前に寄る。クチバシには細かい傷と縞が無数に走っている。
 キングは頭を急に前に突き出し、餌の塊をついばんだ。
 餌は大きくえぐり取られ、残った部分が真っ二つに裂ける。キングはそのかけらも残すまいと、次々にくわえ取っていく。
「今与えたのは柔らかい餌ですけど、固いものも食べさせるのが顎に良いということで、貝を食べさせることもあります。白亜紀にはアンモナイトの殻も噛み砕いて食べていたようです」
 周りで来館者が迫力に呑まれているのが分かったが、こうして目の前にいる間にじっくり見ておかなければもったいない。
「甲羅がつるっとしてて、変わってますよね。今のウミガメのほうが他のカメに近いっていうか」
「そうですね。実は、アルケロン自身は今のウミガメにはつながっていないんです。ウミガメの中でも白亜紀に途絶えたグループなんです」
 水面に浮かんでいるブイにくくりつけられた餌を、メソダーモケリスのうちの一頭、ルークがちぎり取ろうとしていた。
「あっちのメソダーモケリスはオサガメというウミガメの祖先だと考えられています。オサガメはアルケロンと同じように甲羅の鱗が完全になくなっています」
「オサガメってすごく珍しいんですよね」
 ウミガメを研究していたとはいえ、私も生きたオサガメは見たことがない。
 とはいえ、オサガメは汎世界的に分布している。
「アルケロンもメソダーモケリスも決まった地域でしか化石が見付かっていないので、白亜紀には今のオサガメよりもっと珍しいカメだったかもしれません」
「あまり遠くまで泳がなかったんですか?」
「そう考えられていますね」
 ルークは水面にいるし、他のメソダーモケリスを見ると、ビショップは段の上で寝ているし、ナイトは別の段に置かれた魚礁の中を調べている。
「オサガメとは逆に浅い海を好んで、深いところまで泳いでいかなかったみたいです」
 キングは餌を食べ終わり、振り向いて少し進んだかと思うと、水槽の真ん中に寝そべって止まってしまった。
 四つの円い台に囲まれてくつろいでいると、機能一辺倒のこの水槽がキングの宮殿に見える。
 実際、キングの成長とともに手狭になった水族館を全面改修することで、アクアサファリは生まれたのだ。
「この水槽くらいの深さのところにいたんですか?」
「これでもまだ浅いかもしれません。ただ、オサガメ以外の今のウミガメも何十メートルも潜るので、アルケロンやメソダーモケリスのほうが向いている水槽ではありますね」
 こうしてウミガメのことを話すにもぴったりの水槽である。
 水槽の周りを進んでいくと、メソダーモケリスの骨格やオサガメの模型など、ウミガメに関する展示物が揃っている。
 そしてこのホールの最後には、壁際にもう一つ水槽がある。
 六メートル角ほどの四角い水槽の中には、キングの水槽と同じく魚礁やブイなどの設備が置かれている。
 キング達と比べるとほんの子供のような、五十センチほどのウミガメが六頭。
「二千万年くらい前の、シロムスというウミガメです」
「二千万……あっ、もしかして」
「はい。首長竜やモササウルス類が絶滅した後のウミガメです」
 三本の出っ張った筋のある角ばった甲羅は、飴色の固そうな鱗で覆われている。
 アルケロンやメソダーモケリスとははっきり異なる特徴だ。
「海の爬虫類はほとんど絶滅しましたが、ウミガメだけは今の海につながっているんです」

 サバイバルロードを抜けると、屋外に出る。
 太陽は少しだけ傾いて、日差しが金色がかっている。真っ白い砂浜と雲、青い空と、海。
「この海にも、ここまでに見ていただいたような生き物とつながっているものがたくさん暮らしています」
 田辺君や、ついてきてくれた来館者が深くうなずいた。
「野外の海や、他の水族館で生き物をご覧になった際、その生き物が長い歴史や大きな困難を乗り越えて生き延びてきたことを思い出していただければと思います」
 クレタシアスオーシャンとサバイバルロードの案内が、無事に終わろうとしていた。
「さて、この他の展示についてですが、ウミガメの繁殖研究施設の大まかな様子をご覧いただける通路や、サバイバルロードにいたものより後から現れたものが見られる別館もございます。この後もごゆっくり、アクアサファリでお過ごしいただければと思います。本日は最後までのご清聴、ありがとうございました!」
 深々と頭を下げ、皆の拍手を浴びた。
 顔を上げると、田辺君が再び最後まで残っていた。
「お話、どうもありがとうございました。最後に確認なんですが」
「はい」
「今のウミガメって、ここではなくって県内の他の水族館にいるんですよね」
 キングやメソダーモケリス達、それにシロムス達と現生種を見比べたいと思ってくれたのだ。
 やはりウミガメをひいきするのはいけないのだが、これほどありがたいことはない。
「そうです!県内の水族館のリーフレットがありますので……」
 タブレットケースには近隣館のリーフレットやチラシ、イベント案内が挟まっている。
 その中で、ウミガメが最も得意な館のリーフレットと割引券を引き出して手渡した。
「どうぞ」
「どうも、色々ご親切にありがとうございます」
 田辺君はぺこりと頭を下げ、ウミガメ施設へと去っていった。
 竜骨生物群集の展示などあまり多くの人に受け入れてもらえなかったし、田辺君あっての今回のツアーだった。
 それでも、確かに成果があった。
 またこんな風にできれば。私は今日の内容を振り返ってまとめるため、事務所へ急いだ。
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