Lv100第四話
「蛟(ミズチ) -茜と被験個体3番-」
登場古生物解説(別窓)
 白い無表情な壁の中、パソコンを紙束で囲ったような乱雑なデスクが並ぶ。ポット、冷蔵庫、電子レンジ、温湿計、戸の付いた棚には謎の機材。カップ麺はとっくに食べ終わり、携帯アプリにも飽きてきた。
 低く唸る機械音はガラスで隔てられた隣の部屋からだ。白衣なんか着せられて、私はその部屋に住むものをモニター越しに見張らされている。まだ学部の一年だというのに。
 十五メートル四方はある飼育室の一階分低い床を、生け簀のようなものが占める。砂利や土を敷かずむき出しの底は一方の端が緩く傾斜し、そこに角度を合わせて切られた丸太が突き出ている。
 そいつは、傾斜の麓にいる。
 いかにも危なげな牙の生えた頭をもたげ、感情のない複眼で何十分も坂を見上げている。
 数十センチはある長い体は微動だにしないが、残念ながら息絶えてはいない。脇腹に並ぶわずらわしい鰓が、挑発的に揺れている。
 夕方の六時。そろそろ断りを入れて帰ってしまおうか。撮影はされているのだし、どうせ私はここのゼミ生でも何でもないのだ。私に何の責任もない。そう思ったとき。
 そいつが、左前肢を踏み出した。
 六本の肢をのっそりと動かし、坂の上に向かい始める。
 どちらにしろ電話はしないといけないみたいだ。

 私が不幸にもこの研究室の扉を叩いてしまったのは、入学直後のこと。
 ある噂に踊らされた私は、ガイダンスが終わるやいなや意気揚々とこの研究室を目指して実験棟群に踏み込んだ。今では考えられない。
 中途半端に古く趣のない建物の間を歩く。散りかけの桜が、コンクリートの壁の陰気な汚れを隠していた。
 目指す建物はあっさり見つかった。敷地の一番隅、その棟の名は「再生古生物研究棟」。
 昔から憧れていたもののうちの何かが見られる、そう信じて疑わなかったのだ。
「失礼しまあす!!」
 躊躇いなくドアを開けた。
 まず目に入ったのは、パソコンの周りに積み重なった資料と白衣の猫背。
 ぼさぼさの頭が振り返り、銀縁眼鏡の奥から私をじろりと、というより、とろりと、という程度の鈍い視線で睨んだ。
「何だい」
 抑揚のない声。えーっと、古代の生き物に関わる研究者って、もっとフィールドワーク向きのアウトドアな感じじゃないっけ。
「あ、新入生の稲田です。この研究室って古代の生き物を」
 そこまで言ったところで、こけた頬がにやりと歪んで私の台詞を遮った。
「飼ってるよ、飼ってる飼ってる!見に来たんだろう?早速見て行きなさいよ」
 急に声を弾ませながら白衣の男、後で助教授と分かったのだが、何やら鉄のロッカーをがらがらとあさって引っ張り出してきた。
「飼育室は酸素濃度が高すぎる。中ではこれを付けなさいよ」
 UKロックバンドのジャケット写真もかくや、といったおどろおどろしいガスマスクだった。
 しかし、ここに飼育室があって、早速見られる?私が聞いたのは、何かすごく大きな生き物を飼ってるって話だったんだけど。
「ここに今、いるんですか?その、古代の生き物」
「いるよ、そりゃいるさ。せっかく苦労して施設を作ったんだもの」
 白衣の男は口を尖らせる。飼育施設を自作したのか?ちゃんとした建設業者か何かに委託したのではなく?
 頭の中に盛大に渦を巻く私にかまわず、白衣の男はガスマスクで顔面を覆い大股で奥の扉に向かう。一応、着いて行ってみれば分かるだろう。渡されたガスマスクを付ける。
「ほら、これだよ!」
 扉が開いた先には、水産系の研究所のような生簀。首長竜か魚竜?を飼うにしては、やっぱり小さいし。
 覗き込む。
 あ、ああ。確かに、これは……。すごく……、大きいです……。
 しかし何だろうこれは、殻はあるけどそんなに分厚くないし、肢は多いといえば多いけど高々六本だし、目つきは悪いし色はくすんでるし妙にスリムだし、
「なんか縁起良くなさそうですね、この伊勢海老」
「何を言ってるんだよ」
 せめてエビということにさせておいてほしかった。
「これが史上最大の昆虫、メガネウラの幼虫だよ!」
 ああ、虫ってはっきり言っちゃったよこの人。二回も。そうだよね、やっぱりこれは、ここで飼ってるのは、虫だよね。肢が六本あるもんね。認めざるを得ないよね。
「今時古生物を飼うなんて珍しくないけど、楽に飼えるのはまだほんの一部なんだよ!このメガネウラだって他に二匹も死なせちゃったんだ!」
 男は急に饒舌になると机の上からクリアファイルを引っ張り出し、似たような虫の写真を見せてきた。その死んだ二匹だろうか。
 まあ犠牲が出たと聞けば少しは可哀相かなとも思うが。
「今はそう簡単には死なないと思えるようになったけどね!羽化も夢じゃないよ」
「はあ」
 差し出されたファイルをぼんやりめくっていると、ドアの外からがやがやと声が聞こえてきた。
 声の源はドアの上にある窓のほうに移り、学生らしき数人がそこに見えた。
「香取さん、その人は?」
 机のスピーカーから声。白衣の男はマイクに向かって、
「喜びなさい、熱心な新人だよ!まだ入学したばかりでメガネウラを見に訪ねてきてくれたんだよ」
 何……だと……?
 今やそれは「入学したばかり」しか合ってないぞ!誰が痩せた伊勢海老の世話などするものか。スピーカーからは明るいざわめき。男ばかりだ。
「あ、あの、私は」
「単位」
 白衣が囁く言葉に私の口は止まった。
「ここの教授、秋津先生の動物生理学は難関だよ。しかも必修。すっと単位を取れるのはゼミ生ぐらいだろうね」
「頑張りますので是非お手伝いさせてください」

 こうして私は、十代終わりの貴重な時間をひたすらでかい虫と過ごす羽目になったのだ。
 香取さんは休日でも平気で呼びつけてくるし、出てきたら出てきたで私のやることは見張りと雑用ぐらいで退屈この上ない。いや、だからといって積極的に餌やりや大きさの測定、水質管理などがしたいわけでは決してないが。
 そんな無為な時間ももうそろそろ終わる。
「稲田さん、なんでもっと早く知らせてくれなかったんだよ!」
 言葉の割に香取さんの語気は明るい。ゼミ生達もぞろぞろ集まってくる。
「じっとしてるだけだったんですから良いタイミングなんて分かりませんよ」
「いいからもう、中で直接見よう!羽化が始まっちゃうよ」
 皆すでにマスクを付けており、私にも押し付けられた。
 香取さんは虫が正面によく見える位置に陣取り、その周りにゼミ生、私は角の辺りで一応見るふりだけはすることにした。
 虫は傾斜の上のほう、丸太の立っているすぐ下で再び動かなくなっていた。
「止まり木に上がりませんね」
「うん、合わなかった可能性はあるけど……、まずいな」
 ん、上がらないことがそんなにまずいのか?
 誰も羽化するところを見たことがない虫を羽化させるのが難しいのは分かるが、何か違和感を覚えた。
 虫は長い腹をゆっくりと上下に揺する。二十分ばかり続く振り子運動に欠伸を誘われた頃。
「ああっ!」
 香取さんの叫び。ああ……という嘆息が続いた。
 虫の背中に白い部分ができている。殻の裂け目だということがすぐには分からなかった。
 丸太に上がらないまま、虫は脱皮し始めた。
 適した場所がなくて、水から上がれないうちに殻が割れてしまった。皆はそう考えているらしく、肩を落とす。
 だが、それを見ても私はなぜか落ち着いていた。
 虫に愛着がないせいか。いや、私には水中での脱皮が自然なことに見える。
 伊勢海老はずっと海から出ないのに、立派に硬い殻を作り上げ成長するではないか。
「あの……」
「何だい」
 振り返った香取さんは今にも泣き出しそうな目をしていた。三匹目の通夜にはまだ早い。
「羽化って水中でしちゃ駄目なんですか?」
 香取さんはすぐには答えず、顎に手を当てて俯いた。
 再び上がった香取さんの顔は、もう悲痛ではない。
「水中で羽化する昆虫も、いるよ。メガネウラがそうじゃないとは限らない」
「これだけ大きいと浮力を使わないと脱皮できないかも」
 誰かの声に素早く振り向く。
「それだよ!とにかく、ちゃんと見守っていようよ!」
 飼育室に再び活気が戻った。
 虫の背中は白い部分が次第に盛り上がり、中身を失いつつある殻は少しずつ張りを失っていった。
 くしゃくしゃに縮まった四枚の翅が現れ、続いて長い肢が一本ずつ、するりと抜け出てくる。さらに腹が、弓なりに曲がって引きずり出された。
 今までより垢抜けた、白いシャープな姿の虫が、脱皮殻を踏み台にして水中に立っていた。
 皆の口から漏れるため息、今度は沈んだ調子ではない。
 虫は再び動きを止めた。セミの羽化に倣えば、この後翅を伸ばして体が固まるまで待つはずだ。
 しかし翅はどうするつもりだろう?水中で広げた後、安全に引き揚げられるのだろうか。
 丸まった翅は白いまま、体は段々色味がついてくる。
「香取さん、翅は……」
「とにかく見ていようよ」
 その言葉通り見守っているうちに、翅以外の体は黒光りしてすっかり硬そうになっていた。
 そこで、虫は歩き出す。
 丸太につかまり、よじ登る。もう浮力はいらないらしい。飼育室がどよめく。
 腹の先端まですっかり水から上がり、虫はまた歩みを止めた。
 代わりに、白いままだった翅が、動き出す。
 じわじわと伸びて広がり、透明の膜質を露にする。前側の縁にある、丈夫そうな太い脈が翅を支える。腹は反対に、ますます引き締まってくる。
 翅が広がりきったとき。
 私の前には、巨大なトンボがいた。
 窮屈な殻を脱いで堂々と伸びた翅、均整の取れた胴体。暗緑色のつやを放つ外骨格。
 そうだ、図鑑か何かで見た覚えがある。恐竜よりも前の巨大な昆虫。なぜ名前を忘れていたのか。挿絵が見栄えしなかったせいか。あんな絵、いい加減だ。
 昆虫に見とれるなんていつぶりだろう。小さい頃、お父さんが買ってきてくれたクワガタ以来か。
 翅まですっかり固まったトンボは丸太をさらに上り、先端の断面に這い上がった。体を水平に落ち着けて、前後の翅を互い違いにゆったりと動かしている。
「皆、おめでとう」
 急な低い声に振り向くと、恰幅の良い白髪の男性が立っていた。ここの教授の秋津先生。ドアを開けて入ってきたことにも気付かなかった。
 ガスマスクの下、目尻がすっかり下がっている。
「僕達は人類で初めて、メガネウラの羽化を見たんだ」
「そうだ、皆、おめでとう!」
 香取さんが声を弾ませ、皆が丸く集まって拍手し、互いの肩を叩いた。秋津先生が一人ひとりの手を両手でぎゅっと包み、握りしめていく。
 最後に、秋津先生は私の前に立った。
「手伝ってもらってすまなかった。本当にありがとう。香取君もいつも君に感謝していたよ」
 手を握られながら香取さんのほうを向くと、マスクの顔が小刻みにうなづいている。
「ホントに人手が足りなかったんだよ。いや、君が見張ってたおかげで安心だったね」
「いえ、私はただ座ってただけで……」
 羽化が始まる前、研究室に入ってきたとき。香取さんは満面の笑みを浮かべていた。よほど私からの電話を心待ちにしていたのだ。
 メガネウラは、まだ丸太の上で翅を揺らしている。飛び立つ気配はない。
「今は飛べないんですか?」
「うん、羽化したばかりだからね。完全には乾ききってないみたいだし、あと半日はかかるかもしれないよ」
 半日。その時間が今の私には、ひどく待ち遠しく感じられた。時計を見ると夜の十一時。確実に明日になってしまう。
 ぼんやり見張りをしているだけの無為な時間は、確かに終わりを告げた。

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