Lv100第三十四話
「グランガチ -美奈とエド、リン、プーコ-」
登場古生物解説(別窓)
 東京のど真ん中に海がある。
 ある大きな駅から徒歩で十分もかからない。商業施設やホテルに囲まれた、きらびやかな水槽の海。
 単なる水族館にとどまらない……と自称する、大都市に適応した水族館。私はそこの一員、しかも、一番大きな水槽の担当だ。
 優雅なクラゲ、不思議な深海生物、可愛いクマノミ、愛嬌者のカワウソ、立派なピラルクー……、
 綺羅星のごとき水槽の間を通り抜け、最後の大広間に辿り着けば、薄闇の中にその水槽がそびえ立っている。
 白亜紀大水槽「エンシェントオーシャン」。
 照明は薄い赤や青に彩られ、水面につれて揺らめく。それを受け止めるのは渦を巻く円盤、水族館ではもはやおなじみのアンモナイトだ。
 磁器の皿のようなプラセンチセラスの群れがゆるやかに進む。イカによく似た流線型の身は光に透けている。
 その間をかいくぐるように、この水槽の主人が舞う。人間よりかなり大きい。
「サメ?」「ワニかな」「恐竜だろ?」
 不思議そうな声が、大広間に辿り着いたお客様から上がる。
 正解はそのどれでもない。
 大きな尾鰭を振り回し、長い円錐の口先で水中を突っ切る。丸い四肢の鰭で体を支える。長い背中を細やかに覆う菱形の鱗が、照明の下で妖しく黒光りする。
 海に乗り出した爬虫類であるモササウルス類の一種、クリダステスだ。
 モササウルス類としては小さいが、三メートルあるその体は大きいといえば大きい。広い水槽のただ中を悠然と進む姿は充分な迫力を感じさせる。
 今はオスの「エド」とメスの「リン」がこの水槽にいる。
 私は飼育員だと一目で分かるウェットスーツ姿のまま、広間の隅にある水槽からクリダステスの親戚を連れ出した。
 丸っこい体に大きな口、小さな棘で覆われたフトアゴヒゲトカゲだ。
 そしてクリダステスを不思議がるお客様に声をかける。
「この子と同じトカゲの仲間なんですよ」
「へー、全然違う」
 お客様は感心しながらフトアゴをなでていく。
 大水槽の周りはソファーやテーブルが取り囲んでいて、カフェとしてコーヒーやカクテル、軽食も出している。
 お客様はここまで色々な生き物を見てまわった最後に、ゆったりとくつろぎながらクリダステスの雄姿を眺めることができる。
 土地柄もあるし、夜まで開いているから、仕事帰りのサラリーマンもやってくる。ストレスから逃れてゆっくりしていってほしい。
 といっても今はまだ午後四時。そういうお客様のピークには早い。
 あそこでテーブルに着いているスーツ姿のカップルは二人して早く上がったのかな……、
 などとぼんやり思っていると、ショートカットの女性のほうが立ち上がって近付いてきた。
「こちらの飼育員のかたですね」
「あ、はい」
「動物園水族館協会の小野と申します。本日はこちらの視察にまいりました。視察といっても本格的なものではありませんが」
 そう名乗って、女性は名刺を差し出した。私には自分の名刺どころかもらった名刺をしまうポケットすらないが。
「山木です、よろしく」
 男性のほうは立ち上がるとかなり大柄だった。
「飼育員の塩江です。ようこそお越しくださいました。ご覧になってみて、いかがですか?」
 二人は同時に答えた。
「いいと思います!」
「世俗的すぎます」
 山木さんは笑って、小野さんはばっさり。すぐに山木さんが頭を下げた。
「すみませんねえ、小野さんちょっと厳しくて」
「山木さんの言うように交通の便が良いところで夜まで生き物と触れ合える施設があるのは意義深いかもしれません。ですが、」
 小野さんはちょっと冷たい表情を崩さずに続けた。
「解説は少なく、生き物についてあまり知ることのできない展示です。演出は華やかですが、生き物の本来暮らしている姿を伝えるものではありません」
 なるほど、野生のクラゲは青やピンクの光に染められたりしない。プラセンチセラスやクリダステスもそうだったろう。
「生き物を美しく見せて楽しませるだけでなく、ていねいに飼育しているのかどうか疑問に思えるのです。今回はそのことを確かめにうかがったのです」
「僕は生き物の状態はいいと思いますよ。そのフトアゴヒゲトカゲも元気そうですしね」
 山木さんがフォローを入れてくれたが、小野さんの言うことは一部の生き物好きの人からたびたび言われていることだった。今さらショックでもない。
 それに、ここにはまだ展示の工夫が詰まっている。私は二人が着いていたテーブルを見た。
「お二人ともお飲み物だけでしたか?」
「え?そうですが」
「では少々お席でお待ちを」
 私は急いでフトアゴを水槽に戻すと、ウェイターに声をかけた。
 ちらちらと様子を気にしながら別の水槽の様子を見ていると、すぐに二人のテーブルに料理が運ばれてきた。
「あの、こちらは」
「このカフェの名物料理、スパゲッティ・アンモーネです」
 見た目はイカの身が入ったソースのかかった海鮮スパゲッティである。しかしこのソースは、最近食材として出回り始めたアンモナイトの身とはらわたから出来ているのだ。
「なるほど、アンモナイトを見ながらアンモナイトが食べられる!アンモナイトについての理解が深まりますね」
 山木さんは喜んで食べ始めた。立派な体格にはちょっと似合わない量に見える。
 小野さんは顎に手を当てて疑問ありげだ。
「こちら……、使われているアンモナイトの種類は?」
「ペリスフィンクテスです」
「展示されているのと違うではないですか。誤解を招くのでは?」
「うーん、プラセンチセラスは食用に養殖されていないですからね」
「それ以前に、本質は生き物の展示なのですからあまりカフェなどを推すべきではないと思います」
 当然、料理は脇役である。
「あれをご覧ください。クリダステス達も食事の時間ですよ」
 水槽の中に、他と違うプラセンチセラスが現れた。魚、イカ、エビから作った餌を詰めた空き殻だ。
 ワイヤーでぶら下げられたそれは表面を磨いて真珠層をむき出しにしてあるので、光沢が強くて一際目立つ。
 すぐにエドがそれを見つけ出し、尾鰭の一振りで間近に迫った。
 そして一瞬、エドの顎がぐわりと開く。
 殻はエドの口にがっちりと吸い込まれた。口の中に隠れていた尖った歯はむき出しになり、つるつるの殻にしっかりと食い込んだ。
 エドは何度かくわえ直してから殻を振り回した。
 餌が殻からすぽんと抜けると、エドはすぐに殻を放り出して餌を吸い込んだ。
「クリダステスの採食行動がよく分かりますね。本物のアンモナイトを捕まえた場合も同じようにするんでしょうか」
 山木さんには興味深かったようだ。
「はい、ごくたまに水槽の中のプラセンチセラスを捕まえちゃうことがあるんですけど、同じように振り回して身だけにして食べますね。本物の身はちょっと抜けづらいみたいですけど」
「なるほど!見事な行動展示です」
「私もそれには同意しますが」
 小野さんはやはりすっきりしない顔のままだ。
「殻をぶら下げているワイヤーが気にかかります。クリダステスの体に引っかかることなどは?」
「それは今までにはないです。……でも確かにワイヤーはなくしたいですね」
「ご検討ください」
 なかなかすっと納得してくれない小野さんなのだった。今のは実際有意義ではあったが。
 もう一方のクリダステス、リンの食事も済んだところで、もっと大がかりな展示の工夫を見せる時間が来た。
「プロジェクションマッピングが始まりますよ」
「おお!」
「それも気になっていました」
 小野さんが食いついている……といっても多分いい意味ではないだろう。
 大広間の照明が落ち、フトアゴ他、現生のトカゲ達の水槽にスポットライトが当たった。
 ガイアナカイマントカゲ、ハルマヘラホカケトカゲ、水槽の上に姿と名前が投影される。フトアゴ以外は水に関係の深いトカゲばかりだ。
 中でも最もモササウルス類に近いオオトカゲの一種、マングローブモニターにスポットライトが絞り込まれた。
 そしてライトはオオトカゲの形に変わり、大水槽に向かって床を這っていく。
 舞台は大水槽の表面に移る。
 中型の肉食恐竜のシルエットが現れ、同じくシルエットのオオトカゲを追いかけた。オオトカゲは水中に飛び込み難を逃れる。
 そのまま泳ぐうちに、その姿は流線型に、尾と四肢は鰭に変わった。実物大のクリダステスである。
 クリダステスは数を増やし、さらに他のモササウルス類が現れる。
 クリダステスより少し大きいものが海底に二枚貝を見付けた。「グロビデンス Globidens」と名前が出る。
 グロビデンスは二枚貝をくわえ上げると、丸いいぼのような歯で噛み砕いた。
 上からイカの群れが泳いできたかと思うと、その後からさらに少し大きいモササウルス類の群れが追いかけてきた。プラテカルプスである。
 下からいきなり細長い口が突き出した。そして巨大な尾鰭がかすめ去る。モササウルス類で最も速く泳いだとされるプロトサウルスだ。水面から飛び出し、泡をまとって飛び込む。
 それが去ったあとにはウミガメが呑気に泳いでいたが、プログナトドンの強靭な顎に甲羅ごと噛み砕かれてしまった。
 プログナトドンがカメを持ち去り、一瞬の静寂の後。
 人の背丈ほどもある巨大な頭が、二つ並んで現れた。
 最大のモササウルス類、モササウルスとティロサウルスである。
 じっと見ていたお客様もこれには驚きの声を漏らす。
 大水槽の横幅と同じだけある破格の巨体を見せつけるように、二頭は悠々と泳ぐ。
 二頭が通り過ぎていくとプロジェクションマッピングは終了し、大広間の照明が元に戻った。
 山木さんは立ち上がって拍手する。
「いやあ、モササウルス類の進化も分かりますし、飼えないものまで実物大で色々見られる、プロジェクションマッピングの見事な活用でしたね!」
「ありがとうございます。あれ、小野さんは?」
「あっ、あそこにいますよ」
 小野さんは大水槽の横から出てきた。プロジェクションマッピングは見ていなかったのだろうか。
「クリダステスの様子を見ていました。プロジェクションマッピングの間、落ち着きを失っていたようですが」
「そうですね、光が動くので餌を追いかけるのと同じようなつもりで反応するんですよ。運動不足の解消にもなります」
「そうでしょうか」
 小野さんはやはり納得できないようだった。しかしこの話題はあまり議論しても平行線になるだけだろう。
「本日特に確かめたかったことなのですが、妊娠しているクリダステスがいるのですよね?」
「そうです。今は他の水槽にいますよ」
 それを聞くと小野さんの表情が少しだけ和らいだ。
 大水槽にはメスのリンもいるが、妊娠しているのは別のクリダステスだ。
 小野さんは妊娠しているクリダステスがいる水槽にプロジェクションマッピングを行っているのではないかと心配していたようだ。いくら運動になるといっても妊娠している個体はもっと静かにさせておかねばならない。
「こちらです」
 この広間には大水槽以外にもう一つ、壁に大きな水槽がある。元は別の生き物が入っていたのだが、もう一頭のメスのクリダステス「プーコ」のために空けられたのだ。
 今その水槽は、下半分がすっぽりとついたてに覆われている。その上にプーコの姿がゆったりと浮かんでいる。
 よく見ればお腹がエドやリンと比べて膨らんでいるのが分かる。
「もうだいぶ出産が近いので、最近はあんまり動かないですね」
「バックヤードではなく展示スペースにいるのですか。経過は順調なのでしょうか?」
「ええ、もう明日にでも元気に生まれるんじゃないかと」
 そう答えると小野さんの目に力が入った。
「明日ですね」
「絶対確実とは言えませんが」
「では明日、また伺います」

 そして翌日、また夕方になって。
 水槽の上から観察していた同僚がプーコの様子に気付いた。
 妊娠の経過につれて動きが鈍くなっていたプーコが、ついに完全に動かなくなったのだ。鼻を水面から出したまま浮かんで、泳ごうとしない。
 海外での記録にあった、出産の兆候だ。
 私は放送席に向かい、館内のお客様に呼びかけた。
「ただ今、広間の第二水槽にいるメスのクリダステスが出産の体勢に入りました。大変恐れ入りますが、ご来館の皆様におかれましては、どうかお静かに見守っていただきたくお願い申し上げます。なお、これにともないまして、大水槽「エンシェントオーシャン」でのプロジェクションマッピングの上映は中止とさせていただきます。大変ご迷惑をおかけいたしますが、ご了承いただけますようお願い申し上げます」
 放送しているうちにバックヤードと水槽正面のまわりで飼育員が持ち場に着いていた。私も水槽正面、下からの観察とお客様への注意に加わった。
「これ持って」
「はいっ」
 出産中・お静かに、と書かれたプラカードである。
 三人で水槽のまわりを取り囲み、後ろを気にしながらお客様と水槽の距離を保つ。
 放送もしたし飼育員が揃って仰々しくしているもので、プーコの様子を見に来たお客様がかなりいた。
「出産の見守りにご協力ください」
「よろしくお願いします」
 声を抑えて注意すると、お客様も理解して静かに見ていてくれた。
 そんな風にしていて二十分ほど。
 プーコの総排泄孔から細長い三角形のものが出てきた。
 一頭目の赤ちゃんの尾鰭だ。
 わっ、と歓声が上がりかけたが、すぐ振り返ってプラカードを掲げながら頭を下げた。歓声はそこですまなさそうに途切れる。
 尾鰭に続いて細い尾、後ろ鰭、胴体と徐々に現れていく。
 前鰭が出るとつっかえるものはなくなり、一気に頭まで抜け出た。
 再び、今度はため息のような抑えた歓声。
 第一子はすぐさま水面を目指し、プーコの脇腹に寄り添いながら息を吸った。
 まだまだ、あと三頭は産まれてくるはずだ。
 始めの頃と比べてお客様が騒がしくなってきた。
「なになにー?」
「なんか出産だって!」
 最初の注意を聞いていなかったお客様が大きな声を出しながら近付いてきた。
 観察は一人に任せて、私ともう一人で集中的に対応することにした。
「すみません、動物に負担がかからないようお静かに見守っていただけますようお願いします」
「えー?」
「ショーでは、ありませんので」
「はーい」
 案外素直に聞いてくれた。
 しかし結局は、時間が経つにつれて少しずつざわめきが広がっていった。
 プーコは二頭目を産み終え、さらに三頭目の前鰭が出ようかというところだった。
 プーコがお客様のざわめきを聞いて、ここが安全でないと見なしたら……、どうなるかは、分からない。
 これから産まれてくる子だけでなく、もう産まれてプーコに寄り添っている子の安全も確保できないかもしれない。
 低い歓声が上がり、振り返ると三頭目が産まれきっていた。お腹の具合からして、前例どおり四頭目で最後のようだ。このまま何事もなければ……、
「おお、何あれ!なんかやってんだけど!」
 一際大きな声が響いた。
 若い男性が恋人らしき人の手を引きながらこちらに向かってくる。
 あれは酔っている。カフェで出しているお酒のカップを持っているのが見えた。
 私はプラカードを掲げてその二人、いや、大きな声を出した男性のほうに向かった。
「申し訳ありませんお客様、動物の出産中ですのでお静かにお願いします」
「何、見せてくんないわけ。出産?」
 男性の声に怒気がこもる。
「その、そういうわけでは……、お静かにご覧いただければと」
「いーし、勝手に見るから」
 そう言い捨てると男性は私を脇に押しのけてしまった。
 その瞬間私は、ここが昨日の小野さんの納得するような水族館でないことを呪った。もっと真面目な水族館だったら酔っ払いなんていないのに。いや、せめてバックヤードにもっと余裕さえあれば。
 が、男性はそこで何かにつっかかった。
 そこに立っていたのは、大きな胸板をさらに大きく張った山木さんであった。
「おおっと、失礼。いやあ、生命の神秘は静かに見守らないといけませんなあ」
「な、何、客に向かって」
 男性は山木さんに向き合おうとしたが、相当の体格差にたじろいでいるのは明らかだった。
「客?ああ、僕は従業員ではありませんよ」
「は?だ、だったら、何も文句言われたくねーし」
「同僚が失礼いたしました」
 二人の間に潜り込むように頭を下げたのは、小野さんだった。
「動物園水族館協会の者です。本日はここにいるクリダステスの出産が行われております。動物の安全のために、どうかお静かにご覧くださいませ」
 小野さんは再び頭を下げた。山木さんもにっこりと笑って背をかがめた。
「まあ、そういうわけなので、お願いします」
 男性はすっかり勢いを失い、後ろにいた女性に逆に腕を引かれて下がっていった。
「座っか……」
 大人しく席に着くのを三人で見届けると、小野さんの深いため息が聞こえた。
 小野さんにもこの水族館のことを認めてもらいたかったのに、逆に迷惑をかけてしまった。
「ありがとうございました。対応が不充分で、すみません」
「いえ」
 見ると、小野さんはプーコのほうを見て微笑んでいた。この人笑えたのか。
「繁殖まで達成したのですから、それは素晴らしいことです」
 私は自分の耳を疑った。今、小野さんがこの水族館のことを誉めてくれたのか。
「視察に来て分かりました。この水族館でも生き物達は精一杯生きているのですね。そういった生き物の姿が身近に見られるのは良いことです」
「あ、ありがとうございます……」
「四頭目の尾鰭が出てきましたよっ」
 山木さんはコンデジで写真を撮っていた。
「来館者への注意に戻ったほうがよろしいのでは?」
 小野さんの口調はもう昨日のものに戻っていた。
「は、はいっ」
 少しの間水槽の周りを一人に任せてしまっていたので、お客様が水槽に近付きすぎていたようだ。
「すみません、水槽から距離を開けて見守ってくださいますようお願いします」
 心なしかさっきよりお客様のざわめきが静まっているようだった。
 プーコは四頭目の子供をゆっくりと、確実に産み出している。
 水槽を背に立ちながら、私はさっきの小野さんの言葉を噛みしめていた。
 ここは人を楽しませることに特化した水族館だ。しかし生き物達はそれぞれの生をまっとうしようとしている。
 その姿を今プーコが見せてくれているし、子供達もそれに加わりつつあるのだ。
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