Lv100第三十三話
「バジリスク -理央とへびさん-」
登場古生物解説(別窓)
 八月の末になると、こうして動物園でコエロフィシスを見たくなる。
 蛇のように細長い首と尾、鳥のような胴体と脚を持つこの恐竜は、目の前の放飼場の中、茂みの下を覗き込みながら歩き回っている。黄色地に黒の点々が入ったメスだ。
 コエロフィシスは今や動物園でそこそこ普通に見られる恐竜だ。
 しかし二十年前、あるコエロフィシスが動物園とは全然違うところで飼われていた。私はしつこく覚えている。
 それは、私が通っていた幼稚園の庭だ。

 私が年中のときの春だ。
 聞かされていなかったのか聞いていなかったのかは分からない。とにかくそれは私にとっては思いがけない出会いだった。
 園庭の隅、あまり使われていなかった区画に、突如として柵ができていた。
 遊具もない資材置き場のようだったところに柵ができたところでかえりみる園児は少なかったのだが、自由休みの時間ともなれば園児は好きなように園庭を駆け回る。
 そこで私は聞いた。
「へびだあ!」
 そう叫んで柵の前から駆け出すのは、同じクラスの男の子であった。
 私はその子を呼び止め声をかけた。
「どしたの」
「あそこにへびがいた!」
「へびー?」
「あそこ、あそこ!」
 男の子はしきりに柵を指差す。
 その辺に蛇が出るほどの田舎ではない。蛇なんか見たこともなかったが、こんなところにいるわけがないと疑ってかかった。
 男の子ってどうしてこう女の子に比べて馬鹿なんだろう。蛇なんかいないと言ってやるために、私はまっすぐ柵へと歩み寄った。
 柵の向こうにももう一つ柵があって、中が少し見えづらい。
 しかし、何かが動いているのが垣間見えた。黒と黄色のごわごわしたもの。
 それがふと、上に向かって伸び上がった。
「へびだー!」
 男の子は再び叫んで走り去った。
 そう、伸びた部分は細長い首だったし、その先にはらんらんと輝く目玉のついた楕円の頭があった。どちらも鱗に覆われている。首よりもっと長い尻尾も向こうにある。
 鎌首をもたげて私を見下ろしてくるのは、本当に、蛇?
 いや、何かちょっと違った。顔つきは蛇というより鳥みたいだし、たわしみたいな毛に覆われた胴体がある。脚も鳥に似ていた上に小さな手まであった。黒地に黄色のだんだら模様は蛇みたいだけど。
 これはきっと、蛇の祖先だ。私は勝手にそう思って納得した。
「へびさん」
 そう呼びかけるが早いか、「へびさん」は急にこちらに振り向いた。
「ジャアアッ!」
 へびさんの上げた金切り声に、今度は私も跳んで逃げることになった。

 そんな風にしてへびさんの存在は園児の間に認知され、自由休みが来るたび柵の前に園児が集まった。
「おーい、きょうりゅう!」
 特に名前も付いていなかったらしく、皆そうやって適当に呼びかけた。
 しかしへびさんは、幼稚園に暮らすものとしては不幸なことに、騒がしいのは嫌いなようだった。
 何か子供達が叫ぶたびに、尖った歯を見せて叫び返す。
 柵の前に集まった子供達は蜘蛛の子を散らしたように逃げるのだ。
 でも、大丈夫。内側の柵から外に首を伸ばしたってこちらに届きはしない。
 それに、静かにしていればだいたいはへびさんも黙って歩いたり寝たりしているだけだった。
 他の子が追い散らされても、私はじっと静かにへびさんを見ていた。
 何か言ったらまた最初のときのように怒られるだろうか。怖くて柵の前では何も言えないのに、私はへびさんを見るのを止めなかった。
 へびさんは地表を見つめてうろうろと歩き回る。首を伸ばしてどこかを眺める。水を飲み、餌をつつき、丸まって昼寝する。
 あまりかわいいとは言えない生き物だ。堂々として凛々しいとも言い切れない。なにしろ鱗と固い毛に包まれた、ひょろ長い痩せぎすの動物である。
 それでも、へびさんの暮らす様子は私には他になく面白いものに思われた。
 みんなは騒ぎ立てるものだからへびさんに追い払われて、そのうちあまりへびさんに近付こうとしなくなっていた。
 私はじっと静かに見ていることを覚えたから、へびさんのことを一人眺めていられた。

 いつもどおりへびさんを見ていたある日、手をぐいぐいと引っ張られた。
 振り向くと、同じクラスの女の子がいかにも不安でたまらないという顔をして私の手をつかんでいる。
 自分がへびさんに怒られたものだからへびさんにかまっている私が心配なのだろう。
 後から思い返せばそう分かったが、そのときの私にはただ邪魔なだけだった。
 私はその手を振りほどいたが、その子は再び引っ張ってくる。
 そんなことを繰り返しているうちにとうとうその子が声を上げて泣き出してしまった。
「ジャアアアアッ!」
 結局へびさんに特大の声を浴びせられ、逆に私がその子の手を引いて逃げる羽目になった。

 そのうち夏休みが来て、へびさんに会えない日々が続くことになった。
 他の楽しみもあったのでそれほど寂しく思っていたわけではないのだが、へびさんの絵を描くこともたまにあった。今でも実家に残っている。
 そして八月の初頭、幼稚園に一泊する「お泊まり保育」の日がやってきた。
 久しぶりにへびさんに会える。幼稚園に向かう私の足取りは軽かった。
 園門をくぐると園庭をまっすぐに、へびさんのいる柵まで走っていった。
 しかし、柵に近付くことはできなかった。
 柵の周りを、さらに簡易の柵が取り囲んでいたせいだ。
 その柵の外からではへびさんの様子がよく見えない。
 まごついているうちに、後ろから先生が来て私を抱きかかえ、柵から離してしまった。私は呆然と持ち上げられているしかなかった。
 灰色の鳥の羽があたりに散らばっていた。

 夏休みが終わり、私が幼稚園に戻ったとき、へびさんのいたところにはもう何もなかった。
 私とへびさんの日々は、そうやって私には何も分からないうちに終わった。

 二十年経って動物園でコエロフィシスを見ているとよく分かる。
 へびさんは、あの大きなオスのコエロフィシスは、何かの間違いで幼稚園にいたのだ。コエロフィシスはウサギや小鳥とは違う、幼稚園なんかにいてはいけない動物なのだ。
 私の見ている前で、黄色いメスのコエロフィシスが植え込みの下を覗き込んでいた。
 そのうち目的のものを見付け、素早く口を突き出す。
 顔を上げると、赤々とした生肉がくわえられていた。コエロフィシスが運動しながら餌が食べられるようにと飼育員が隠したものだ。
 コエロフィシスは狩猟への強い欲求を持った、気性の荒い生き物だ。
 あの最後の日に散っていた羽は、迷い込んでへびさんに殺されたハトのものだった。それが原因でへびさんは幼稚園から追い出されたのだ。
 しかし、へびさんはただいなくなったのではないはずだ。
 あれだけの生き物、いなくなったのならどこかに引き取り手がいたはずだ。そしてそれは、幼稚園から一番近いこの動物園ではないだろうか。
 コエロフィシスの寿命はそんなに長くない。へびさん自身はもういないが、ここにいるコエロフィシスはその孫やひ孫かもしれないのだ。
 確かめようにも、二十年も前にコエロフィシスが引き渡された記録など私には見付けられないのだが。
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