Lv100第三十二話
「エアリアル -舞と昆虫館別館-」
登場古生物解説(別窓)
 とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな
 中村汀女

 昆虫が好きな私達にはたまらない情感を抱かせる有名な句が、温室の入り口にモザイクタイルで貼り付けられている。
 向かいにも同じような温室が横たわっている。ここは動物園の中にある昆虫館。
 慣れないガイドの制服を着て私の立っているのは、別館のほうだ。
 炎天下の平日、ほとんどお客さんがいないが、そもそもこの別館にはまだ誰も入れない。数年にわたる取り組みの末、ようやく来月オープンするところなのだ。
 そして、動物園関係者以外の人に見てもらうのも今日が初めてのことだ。
 そろそろ待ち合わせの時間ちょうどだなと思った瞬間には、相手の姿が見えていた。
 半袖のブラウスに短いパンツと少しラフな格好、全体が女性らしいのに反して、肩から大きなカメラバッグを下げている。
 ショートカットの頭がぺこりと会釈をした。
「初めまして、S出版の根木です。今日はよろしくお願いします」
「塩谷といいます。こちらこそよろしくお願いします。取材にお越しくださってありがとうございます」
 根木さんは笑顔で名刺を差し出してきた。名前の上には、私も高校の頃まで毎月欠かさず読んでいた科学雑誌の名前がある。私には渡せる名刺がなかった。
 軒下の涼しさに一息ついて、根木さんがカメラバッグを開けると、この動物園に通う動物ファンのお客さん達にも負けない立派なカメラが現れた。
 それを持ち上げる根木さんの笑みは凛としている。
「やっぱり化石から展示が始まるんですね」
「は、はい。この廊下には世界中から集められた昆虫の化石が並んでいます」
「古生物に会えるんだなって感じがして、わくわくします!」
 コンクリート打ちっ放しの廊下は薄暗く、まるで化石の発掘される洞窟のようだ。
 始めは所狭しと散りばめるように、様々な昆虫の化石が壁にかかっている。中央にあるのはカラスほどもある巨大なトンボ、メガネウラだ。
 根木さんは食いつくように撮影を始めていた。全体の雰囲気と注目すべき部分、視野を次々入れ替えながら。
 段々化石の間が空いて種類が減り、やがてトンボばかりが一列に並ぶ。
「この辺りのトンボが、ここで私達が飼育している白亜紀前期のトンボです」
「今のトンボとそっくりですね」
「違いはあまりないですね。それで飼育が可能になったくらいですし」
 廊下が終わり、扉に付いた窓から緑の景色が見える。
 私達が多くの人に見てもらおうと作り上げてきた空間、それを最初に見る一人こそ根木さんなのだ。
 評価してもらえるか、取材の甲斐がなかったと思われるか。
 ゆっくりと押し開けると、少し蒸し暑い空気とまぶしい光が膨れ出し、私達を包んだ。
 根木さんはすぐさまシャッターを切りながら、嘆息を漏らした。
 鉄骨とガラスのドームの下に広がるのは、生い茂るシダの葉に囲まれた静かな池である。
 いくつもの小島を擁し、盛り上がった斜面から小川が流れ込んでいる。
 すぐに陽光に目が慣れて、光の中を煌めきながら行き交うものがいくつも見える。
 きらきらと雲母に似た輝きを放ちながら漂っていたかと思うと、急に素早く波打って見えなくなる。
 そんなトンボ達が何百も温室を飛び交っているのだ。
 この光景が、チョウの舞う本館のように人に受け入れられるかどうか、不安だった。
 少なくとも根木さんはこれをどんどんカメラに収めてくれている。
 トンボ達のうちの一つが目の前をかすめた。
 目も覚めるように妖しく鮮やかな赤紫の体が見えた。
「赤トンボですか?」
「今の赤トンボとは違いますけど、ここにいる中では一番近い種類です。アラリペリベルラといいます」
 根木さんはスマホを取り出し、メモしようと聞き返した。
「アラリペ……」
「アラリペリベルラです」
「呪文みたいで可愛い名前ですね」
 トンボは小さなアラリペリベルラだけではない。特に目立つのは翅に紺色の三角模様があり、体も紺色をしているものだ。
「ベッコウトンボみたいのがいますね」
「アラリペゴンフスです。ここで一番多い種類で、今のサナエトンボに近い種類です。白亜紀にはサナエトンボの仲間が多かったようです」
 池の縁や小島の周りをなぞるように、アラリペゴンフスは飛び回る。
 時々二匹がはち合わせると軌道をからめ、激しくぶつかり合う。皆自分の縄張りをパトロールするために飛んでいるのだ。
 早業を見せるアラリペゴンフスの姿を、根木さんは大きなカメラで追いかけた。飛んでいるトンボの写真を撮るのは不可能ではないが、根木さんにはその技術があるのだろうか。
 根木さんがディスプレイから顔を上げると、自信に満ちた笑みを崩していなかった。
「上手く撮れたんですか?」
「へへ。実は私、虫の撮影が大得意でして。こういう取材のときは決まって駆り出されるんです」
 自信に満ちた答えはとても頼もしいものだった。
 それに、ここを気に入ってくれたことも分かる。初めてのお客さんが根木さんでよかった。
 空中で組んずほぐれつするアラリペゴンフスの中に飛び込むものがあり、アラリペゴンフスが急にぱっと散った。
 虎柄をしたずっと大きなトンボが現れたのだ。
「ヤンマみたいですね」
「ムカシヤンマの仲間の、エオタニプテリクスです」
「ムカシヤンマですか。中生代って感じがしますね」
 根木さんはまた名前をスマホにメモした。
「順路を進みましょう。この温室の中にも場所によって違った環境があって、違ったトンボが住んでいます」
 池の外側をまわることもできるが、小島から小島へ橋を渡っていくのがメインの見学ルートだ。
 最初の橋を渡っていると根木さんが急に手を打ち鳴らした。
「あ、蚊です」
 しかし私はその蚊に心当たりがあった。
「それ……、餌として放ってるユスリカです」
「あれ、そうだったんですね!ごめんなさい。トンボの餌はユスリカなんですね」
 ユスリカは血を吸うことはないので故意に放っても問題ない。しかしユスリカが飛んでいても不快に思われないように説明書きがいるだろうか。
 私はちらりと水面を見た。ちょうどよかったかもしれない。
「そのユスリカを水面に落としてみてください」
 根木さんがそうするとすぐに、水面を滑ってくるものがあった。
 針金細工のような姿。
「アメンボ……、じゃないですね?」
「そのとおりです。これはアメンボそっくりの形と暮らしをしたバッタの仲間で、クレスモダといいます」
 長い脚で水面に立つところや細い体はアメンボそっくりだが、翅はバッタの翅である。
 クレスモダはアメンボにはない太い触角をユスリカに付けると、長い前脚で引き寄せてかじり始めた。根木さんはその様子もしっかりカメラに収めている。
 そして水面にある別のものに根木さんは気付いた。
「花が咲いてますけど、これも化石のですか?」
「そうです。トンボ達と同じ地層から見付かったジュンサイの仲間で、プルリカルペラティアです」
 プルリカルペラティアは小島の周りに群れて小さな楕円形の葉を浮かべ、赤いレンゲに似た、指先でつまむ程度の花をいくつも咲かせている。
「たくさん生えているシダも同じ地層から見付かったものです。ルッフォルディアといいます」
 根木さんはプルリカルペラティアの花だけでなくルッフォルディアもしっかり撮影した。
 そうしているとルッフォルディアの茂みの上を漂ってくるものがあった。飴色の翅がふわふわと手旗信号のようにはためく。
「イトトンボの仲間のユーアルキスティグマです」
「今いるトンボと同じ仲間が揃ってるんですか?」
「科のレベルでは今と違ってますけど、大体今いるものと近いですね。今いない仲間のも一種類だけいます」
 私は温室の壁際を囲うモクレンの木陰を指差した。
 一際巨大で体も翅も細長いトンボが、アラリペゴンフス達の縄張り争いには関わりたくないという風情で、のどかに梢の下を行き交っていた。
「クラトステノフレビアです。ムカシトンボと狭い意味でのトンボの中間のグループに入ります」
「ずっとあの木の下にいるんですか?」
「はい、他のトンボと違って元々は林の中に暮らしていたのかもしれないです」
「後で近くまで撮りにいかないと」
 今いないグループのトンボとなれば取材には重要だろう。
 小島から小島へいくつか渡り、中央の、モクレンが植わっていて木陰にベンチのある島に着いた。
「ここでこの温室全体についてご説明しましょう。お座りください」
「いえいえ、取材に来ておいて自分だけ座れないですよ!どうぞどうぞ」
 譲り合って結局隣同士に座った。
「さて、ここにいるトンボは全てブラジルのクラト層という地層で発掘された種類です。時代は白亜紀前期、約一億八百万年前です。クラト層からはトンボやクレスモダだけでなく、とてもたくさんの種類の昆虫や植物が発掘されています」
「でもここはトンボが中心なんですね。他の昆虫は飼育しないんですか?」
「とてもいい質問です」
 温室の外には隣の昆虫館本館が見える。
「本館にいるのは主にチョウとバッタで、トンボはいません。チョウとバッタを殖やすのに必要なのは何だと思いますか?」
「幼虫の餌になる植物ですね。本館の仕事で大切なのは餌の植物を育てることだって聞きました」
「そのとおりです。植物を食べる昆虫には決まった種類の植物が必要ですが、化石からチョウを再生したとして……」
 そこで根木さんが手を叩いた。
「幼虫の餌にするべき植物が分からない、ですね!」
「そうです。クラト層からは植物も植物を食べる昆虫もたくさん発掘されていますが、どの昆虫がどの植物を食べるか分からないんです。まだ見付かっていない植物を食べるかもしれません」
「生態が予測できない古生物は再生してはいけないんでしたよね」
「はい。そこで現在のものそっくりで生態がかなり予測できるトンボを再生して飼育することになったんです」
「なるほど……!」
 根木さんは立ち上がり、温室内をゆっくり見回した。
 トンボ達は陽光の中を輝きながら進む。
 飼えるか飼えないか、現生と化石でしばしば逆転が起こる。このことを根木さんはしっかり記事にしてくれそうだ。
 振り返ると苔とシダに覆われた石の斜面を小川が流れている。それはところどころ小さな滝と滝壺になっているのだ。
 滝壺のひとつにちょうど、少し小さな枯草色のトンボが止まっていた。腹を曲げて尻尾の先を水に突っ込んでいる。
「パウキフレビアが産卵しています」
 根木さんはすぐにカメラを向けた。
「今のトンボとそっくりとはいっても、どうやって産卵するかなどの細かい生態までは予測できません。そこでただのっぺりとした池にするのではなく、島や小川を作るなど環境に細かい変化を付けてあります」
「さっき木の下から離れないのもいましたね」
 パウキフレビアは根木さんのカメラにもかまわずしばらく産卵を続けたかと思うと、急に飛び立っていった。
「卵から孵ったヤゴはここで育つんですか?」
「餌になる生き物も水中にいるので、しばらくはこの温室の中で育ちます。その後私達飼育員が捕まえて、羽化するまで飼育室で育てます」
 小川が流れる斜面の奥には次の展示に続く扉がある。
「飼育室の様子も見られますので、行ってみましょう」
「はい!」
 扉を抜けると蒸し暑い温室から風景が一変する。薄暗く涼しい室内に目と肌が一瞬戸惑う。
 一方の壁には長方形の小窓がずらりと並んでいる。そこから見えるのは景色ではなく小さな水槽だ。
「水族館ですね」
「ヤゴの水族館です」
 水槽を覗けば、何もない床面に茶色いヤゴがじっとたたずんでいる。
 落ち葉に隠れているものもいるし、ごく浅い水しか入っていない水槽で、湿った苔の上にいるものも。
「ヤゴは水中にいるのが普通ですが、少数派ながら完全には水に入らない種類もいます。そういった生態の区別が付くまでは実験の連続でした」
「水槽がないところがありますね」
「羽化が間近なので別のところに移動したものですね。後で羽化直後のものを見てみましょう」
 ヤゴが見える小窓が続いた後、ずっと大きな窓に水槽が二つ置かれている。
 根木さんは説明を読んだ。
「ヤゴの餌、ですか」
「さっき温室にいたユスリカですが、その幼虫もヤゴの餌になります。それでは大きすぎる場合はミジンコを与えます」
 片方の水槽では、底に沈んだ泥を無数の赤く細長い虫が覆っている。苦手な人は騒ぎ出すだろうが根木さんは冷静にカメラに収めた。
 もう一方の水槽は一見濁っているだけで何もいないように見える。ミジンコの培養槽だ。
 そして窓の向こうには水槽があるだけでなく、もっと奥まで部屋が続いている。私はそちらへのドアを開けた。
「バックヤードをご覧ください」
「いいんですか」
 根木さんは目を見開いた。
 自分でも本当にいいのかなという気はしていた。なにせこのバックヤードこそが自分達の仕事場である。
 いつも私が作業服姿で働いたり散らかしたりしている雑然とした部屋に……、今日は根木さんを入れることになっていたから少しはましだが、すっきりとした身なりの根木さんが踏み入る。
 根木さんは目を輝かせているが、私は違う意味でドキドキしてしまう。
「あっ、写真大丈夫ですか?撮るからには載せますけど」
「も、もちろんどうぞ。通常はお客さんが入れない場所であることは明記してくださいね」
 もう少し念入りに片付ければよかった。
 バックヤードでまず真っ先に目を引くのは、実際に餌を得るのに使っているいくつもの培養槽だ。
 何十もの水槽の群れが中心に陣取っている。
「本館で餌の植物を育てるのが重要なのと同じように、こちらでもまず何よりこの餌の水槽の管理です」
 ミジンコの培養槽はやはり単に濁った水の溜まった水槽にしか見えない。
 ユスリカのほうはしっかり蓋が閉まっていて、何本か管が出入りしている。そのうちの一本だけ特に太い。羽化して成虫になったものを温室に導くダクトである。
「つまりこれが、この施設の心臓部なんですね!この水槽の世話がメインのお仕事というわけですか?」
「はい、一日の大半を餌の管理に費やします」
 こんなどぶ水のような水槽のことを熱心に聞いて、やはり根木さんは本当にトンボの飼育に興味を持って取材してくれている。
 壁を見回せば片方にはさっき見たヤゴの水槽、もう一方には標本棚と資料や論文のファイルが並ぶ。
「ここから出た論文もありますよ」
「どのくらいのペースで?」
「月一回は出ています。実際に飼ってみると現生のトンボよりずっと研究が進むこともありますよ」
「それじゃあ今のトンボを飼ったらすごく研究が進みそうですね」
「そうですね、本館でもトンボを飼う計画があります。さて」
 私は棚の上に置いてあった一ダースの小さな水槽を台車に載せた。
「羽化したトンボを温室に放ちます」
「おおっ!」
 根木さんは声を上げ、さっと台車の上の水槽に近寄って覗き込んだ。
「羽化したばっかりは綺麗ですねえ!」
「今ご覧の種類は特にだと思いますよ。パラコルドゥラゴンフスといいます」
 パラコルドゥラゴンフスはスマートで優雅な体つきをしている。艶のある黒の地に、控えめだがまぶしいライムグリーンの縞模様が入っている。特に羽化直後は目も覚めるように鮮やかだ。
 ちょうど羽化したものの一番上に置いたのが、ここにいる中で一番綺麗なパラコルドゥラゴンフスでよかったと思う。
 他のトンボも含めて根木さんがひとしきり撮影し終わったところで、台車を押して温室に運び入れた。
 いつものことながら、飼育室から温室に出ると目が慣れずまぶしい。
 水槽の蓋を一つひとつ開けていけば、トンボ達は一匹また一匹と飛び立ち、温室の中に飛び込んでいく。
 そして、温室は新たな仲間を受け入れて何事もなかったようにのどかであり続ける。
「オープンしたらここも賑やかになるでしょうね」
 そうしたらのどかさは失われるだろうか。
 今日根木さんが初めてここに訪れて、私はこれまで私達しかいなかった仕事場が見られることに緊張を感じていた。
 でも、ここは人に見せても大丈夫だ。その自信を根木さんがくれた。
 虫を嫌がる人や怖がる人もここには来るかもしれない。しかしここには魅力があると、根木さんが確かめてくれた。
「とっても賑やかになるような記事、よろしくお願いします」
 私と根木さんは笑顔を見せ合った。
 トンボ達は私達のまわりを煌めきながら飛び交っている。
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