Lv100第三十話
「ビショップフィッシュ -理子とランプ-」
登場古生物解説(別窓)
 幼稚園児の頃、私が絵を描くと「変わったイルカだね」と先生によく言われていた。
 私の描いた「イルカ」は、鰭が二つ多く、尾鰭は縦になっていて、何か間違えたように見えたことだろう。背中は黒、お腹は白にはっきり分かれていた。
 何より、頭の輪郭からはみ出すほど大きく見開かれた丸い目だ。
 でも私は何度でもそんな風に「イルカ」の絵を描いた。そして先生が不思議そうにするたびに、私は不満に思うのだった。
 先生も水族館で魚竜を見たはずなのに、忘れちゃったの?

 私の生まれた町から電車で数駅のところに、海沿いの観光地がある。
 そこに昔からある……、いや、あった水族館に、幼稚園の遠足で行って以来、何度も親に連れて行ってもらった。
 ペンギンやアシカのいる広場から本館に入ると、いきなり大昔の生き物のコーナーだった。できた当時は最先端だったとのことだ。
 魚やアンモナイトといった、ジュラ紀の頃は海の底だったドイツにいた生き物達だ。
 今思うともったいないことだが、私はそのコーナーも、地元の海にいる生き物のコーナーも足早に通り過ぎ、とにかく一番最後の水槽を目指した。
 イルカやウミガメの水槽に囲まれた一際大きな水槽を、それでもまだ狭いと言わんばかりに一頭きりで泳ぎ回っていたのが、魚竜だった。
 ステノプテリギウスという難しい名前も幼稚園児の間に覚えてしまった。
 もちろん、私の描いた「イルカ」とそっくりの姿をしている。
 四つ足の鰭と縦の尾鰭。細長い口。
 そして、黒くて丸い大きな目。
 「ランプ」と名付けられた幼いオスのステノプテリギウスの目は、名前どおりにぎらぎらと輝いて、通り過ぎるたびにこちらを見つめてくるようだった。
 事実こちらが見えているはずだと、飼育員さんが教えてくれた。

 最初に遠足で行ってから十数年が経った。
 その水族館は老朽化によって、惜しまれながらも閉館が決まった。
 しかし、慣れ親しんだその水族館が閉まっても、私には悲しんでいる暇はなかった。
 代わって私の住む町の近くに水族館が建てられ、私はそこで働くことが決まったからだ。

 さらに数年。バックヤードにて、夜の九時。
「それでは、お願いしますよ」
 ウェットスーツ姿の私は、作業服を着た大学の先生から一台の装置を手渡された。
 左右に向かってレンズが突き出ていて、分厚いシリコーンゴムでできた台座からは二本の長いベルトが伸びている。
 ここは直径二十五メートルのドーナツ型水槽の縁。
 黒い水面にさざ波が立ち、照明に輝いている。
 その中に、黒い影がいくつも浮いている。大きなものが二つ、小さいものが六つ。
 一番大きいのが、あの頃からずっと飼われ続けているランプだ。
 尖った口先から、水面に突き出た尾鰭の先まで、およそ三メートル。
 一頭きりで泳いでいた頃とは見違えるように成長した。奥さんや子供達までいる。
 私は装置を持ったまま水槽に入り込み、ランプに近付いた。
 ランプの瞼は閉じている。
 滑らかな肌にそっと触れても、瞼が開くことはない。こうしてランプが寝ている間に健康管理を行うのはいつものことだ。
 しかし今回はどうだろうか。
 魚竜はイルカに似た外見に反して、世話をしている人間だからと手加減をするような理性に乏しい。だから寝ている間に作業するのだ。
 起こしてしまったら身震いでもしないうちに離れなくては。
 首の上にそっと装置を載せる。レンズが目の真上に来るように。
 ランプの瞼は、開かない。
 しっかりと縛るようにベルトを締める。ランプはやはり起きない。
 無事、取り付け作業完了だ。
 明日は休館日。装置の稼働を試すことができる。

 それからしばらく経ったある土曜日。
 ちょうどあの装置の成果をお披露目する日に、私が解説をする番が来た。
 黒い壁に囲まれたホール。
 制服を着た私の前には、十人弱の子供達と、彼らを連れる中年の男性が待機していた。子供達は小学校の低学年から中学年くらいで、喋ってはいるが比較的静かだった。
 解説ツアーが始まる時間が近付いていた。その前にどんな団体か男性に聞いておこうと思い話しかけた。
「こんにちは、ようこそいらっしゃいました。お子様達も皆さん解説ツアーのご見学ですか?」
「ああはい。今日は私の塾の遠足でして」
「そうでしたか。よろしくお願いします」
「はい、よろしく」
 なるほど、土曜に塾で集まるくらいだからやたら騒ぐ子達ではないわけだ。
 子供がたくさんいるといかにも遠足の集合場所という雰囲気が出るせいか、時間になっても特に他のお客さんは集まらなかった。
「はい、それではお時間になりましたので、解説ツアー始めていきたいと思います。皆様本日はよろしくお願いいたします」
 普段どおりに開始の挨拶をすると、塾長さんも子供達も頭を下げて返事をした。
「この解説ツアーでご案内するのは、本館の三つに分かれた建物の中でも、ジュラシック館という施設です。進みながらこのジュラシック館についてもご説明しますので、途中ご質問などありましたら何でもお尋ねください」
 そう言ったそばから一番小さい子の手が上がった。
「なんでジュラシックなんですか?」
 なんでも「なんで」と付ける子供特有の突飛な疑問だろうか。どう答えるか一瞬考えたが、飼育員としてこの程度は対応できなければ。
 元々説明するつもりだった内容を話すことにした。
「そうですね、まずジュラシックというのは「ジュラ紀の」という意味です。ここには一億八千万年前のジュラ紀という時代、ヨーロッパ大陸の大部分が海に沈んでいた頃の生き物が暮らしています。例えば……、このアンモナイトです」
 私は壁にかかったアンモナイトの化石を指差した。
「当館の前にあった水族館が地元の生き物と交換でドイツの水族館から生き物を受け取り、ジュラ紀のドイツにいた生き物の飼育が始まりました。それ以来ずっと展示を続けているから、当館にジュラシック館があるんです」
「タカヒロ、飼育員さんの説明分かった?」
 塾長さんが質問した子に聞くと、その子も「分かりました」と答えた。
「それでは、進みましょう」
 ホールから歩き出すと、まずあるのは水槽ではなく、壁に化石が並んだ廊下だ。
「これはアンモナイトのハルポセラスです。この魚はダペディウムといって分厚い鱗が特徴です。……これはイカに近い生き物のフラグモテウティスです。柔らかい体の跡が化石になっています」
 順番にどんどん説明していった。子供達は静かに聞きながら私の指差す化石に注目している。
「……このワニは海で暮らすワニのステネオサウルスです。このカツオに似た魚は、速い泳ぎが得意なパキコルムスです。……これは花ではないですよ、ウミユリというヒトデの仲間の生き物で、セイロクリヌスという種類です」
 廊下の終わりで私は立ち止まり、振り返った。
「始めはドイツからもらった生き物を展示していましたが、国内でも化石から遺伝子を取り出して生き物を甦らせる技術が発達すると自力で生き物を用意できるようになりました。さて、」
 手を廊下より先、揺れる水面を通した光の溢れるトンネルに向かって差し伸べる。
「ここまでご説明しました化石の生き物、全て生きたものが揃っているのがこのジュラシック館唯一の水槽、テチス・リングです!」
 進み出た子供達から歓声が上がった。
 出迎えたのはピンクに縁取られた真ん丸いアンモナイト、ハルポセラスの大群だ。
 右手の水槽中心側だけでなく、頭上まで取り囲んでいる。
 その群れの向こうを覗き見ると、水槽はずっと深くまで見下ろせるのだ。一番深いところで十二メートルある。
「ここはテチス・リングを取り巻く、水槽に半分めり込んだスロープです。次第に下っていって、最後はテチス・リングの内側のホールに続いています」
 ハルポセラスの群れに混じって、真鍮色の魚、ダペディウムもいる。丸い体全体に敷き詰められた菱形の大きな鱗、その一枚一枚が鈍く光を反射する。
 ゆっくりとただようその集団を追い越して現れたのが、流線型をしたイカ、フラグモテウティスの群れである。薄いミルク色をした体が光に透け、固い甲の影が見える。
「あっ、今の何!?」
 一人の子がそれを見つけ出すと、他の子もつられてそちらに注目した。
 ランプ達がすぐそこで息継ぎするのが、小さな生き物達の向こうに見えたのだ。
「この水槽で一番大きな、魚竜のステノプテリギウスです」
「魚竜って何ですか?」
「恐竜!?」
「魚竜は恐竜の時代に海で暮らしていた爬虫類です。ホールまで行けばもっとよく見えますので、そのときに詳しくご説明しますね。今はこの浅いところにいる生き物を見てみましょう。ほら」
 私は斜め上を指差した。
 ちょうど海ワニ、ステネオサウルスの棒のように長い顎が、浅瀬から水中にせり出してきたところだった。
 ステネオサウルスは三メートルあるその全身をするりとトンネルの上に現した。
 声を上げ、ステネオサウルスに向かって手を伸ばす子もいれば、顎の長いウツボのような異様な影から離れようとする子もいた。
 ステネオサウルスはフラグモテウティスの群れの後を追うように泳ぎ始め、その場を後にした。
 先に進むにつれ、水槽の中は深さの割に暗くなっていく。
 照明が斜めに当たっていて、深いところはあまり照らさないようになっているのだ。
 カツオに似たパキコルムスの一群が、銀鱗をきらめかせながらこちらに迫り、弾丸のように通り過ぎていく。
「ジュラ紀の頃には先程のダペディウムなど鱗の分厚い魚が色々いましたが、パキコルムスといった鱗が薄くて身軽な魚も現れ始めていました」
 ときたま黒と白の影が、滑るように流れていく。ランプ達ステノプテリギウスである。
 とうとうスロープは終わり、道は右に曲がる。
「さあ、ついにテチス・リングの内側のホールに辿り着きました」
 待ち受けているのは三百六十度の水塊。
 そして、九メートルに達する巨大な動物の骨格だ。
 流線型の胴体、プラスチックの板で輪郭を再現された鰭、そして大きく開かれた顎には鋭い牙が並ぶ。
「サメだ!」
「サメそっくりの骨格がありますね。実はこれも魚竜の一種です。テムノドントサウルスという、他の魚竜を襲って食べていた魚竜の骨格模型です。それでは、生きた魚竜もじっくりと見てみましょう」
 テムノドントサウルスが狙うものは、水槽の深みを駆け抜けている。
 ランプの横には奥さんのリーラ。その間に、まだ一メートルもない頭の大きな子供達が集まっている。
 暗い水の中で、ランプ達の白い腹が浮き上がって見える。
 たくましい尾を打ち振るわせ、大きな尾鰭が二つ、小さな尾鰭が六つ、規則正しい周期で振られる。
「魚竜は恐竜が現れるより前に海で泳ぎ始めた爬虫類の仲間です。恐竜時代には色々な爬虫類が海で生活するようになりましたが、魚竜はその中でも一番泳ぎが上手い生き物に進化しました。この素早い動きで、小さなイカの仲間や魚を捕まえて食べていたようです」
 私はゆっくり解説しようとしたが、子供達の顔には緊張の色が浮かんでいる。
 塾長さんの脚を掴んでいる子まで。
 それも無理のないことだろう。ここは深く暗い海の底だ。
 しかもただの海底ではない。
 私は大きな解説板に埋め込まれたステノプテリギウスの化石を指差した。
「この化石をご覧ください。生きているときとそっくりそのままの形が残っていますね。この魚竜が死んで沈んだとき、その海の底は酸素がほとんどない、生き物の住めないところでした。それでこの魚竜は誰にも荒らされることなく、綺麗な姿のまま化石になるまで残ったのです」
 魚さえ溺れ死んだという海底に似せた空間は、静かに濃紺の闇をたたえている。
 しかし、その中にひそむものがいる。
「さあ、水槽の奥までようく覗いてみてください」
 私はわざと声を低くした。
 ランプ達が泳いでいるのよりさらに深く、水槽の底には、ほんのりと赤黒い花のようなものが生い茂っている。
 ひょろりと長い茎を揺らめかせ、丸い網状の花を、何かを見つめるように開いている。
 その姿は夕闇に咲き乱れる彼岸花を思わせた。
「ここに生えているのは花ではありません。先程の化石でもあったウミユリという動物の一種セイロクリヌスです」
 私は水槽の底を見るよう促したが、進み出てくる子は少ない。塾長さんの脚にしがみついた子は顔を隠している。
 別世界を体験させるのが水族館の役目……とはいえ、ちょっと怖がらせすぎたかもしれない。塾長さんも怪訝な顔をしている。
 こちらに私達が集まっているのが見えたのだろう、ランプがすぐそばを通り過ぎた。
 おお、と、短く静かなどよめきが起こる。
 ランプの目つきはいつも変わらない涼しげなものだ。
 そろそろあの装置の成果を見せる時間が迫っていた。
「さあ皆さん、これからこのテチス・リング内側のホールで特別映像の上映を行います。水槽内に暮らしている魚竜のランプ君にカメラを身に付けてもらい、ランプ君が泳ぎながら見ているものを撮影しました。魚竜の生態に迫る貴重な映像を水槽表面に映し出し、皆さんにご覧いただきます」
 水槽の中は照明が弱められ、代わりにガラス面に水色の光が投影された。
 水槽は左右に大きく広がった巨大なスクリーンに変わったのだ。
 その中心に文字が浮かぶ。
「魚竜視覚バイオロギングプロジェクト」
 タイトルが消えると、ランプに取り付けたあの装置のCGが現れる。
 ランプに対する負担を減らすため最小限度の大きさと重量にしつつ、レンズだけはステノプテリギウスの眼球と同じ性能とすることが優先されたビデオカメラである。
 つまり、このビデオカメラで撮れるのはランプに見えているものにとても近い映像だ。
 続いて現れたのは、私がランプに装置を取り付ける様子。そして、翌朝ランプが泳ぎ出すところだった。
 画面は一旦暗転し、再び青い光が映し出される。
 バイオロギング映像の始まりだ。
 右にはリーラと子供達の姿。左には暗くほのかにだけ見えるホール。そして正面は、深く暗い青。
 これがランプの視界である。
 水面近くに浮かぶハルポセラスやダペディウムの群れが頭上を流れていく。
 フラグモテウティスもパキコルムスも追い抜いていく。ランプ達ステノプテリギウスの速さとは比べ物にならない。ステネオサウルスもその勢いに驚くように避けていく。
 同じステノプテリギウス以外の全てが、前から後ろへ流れ去っていく。
 時折ハルポセラスの群れを突き抜け、全体が泡に包まれる。息継ぎの瞬間だ。
 ランプはただ無心にこのテチス・リングを進み続けながら暮らしている。
 正面に白とピンクの小さなものが散らばった。ランプはそちらめがけて突っ込んでいく。
「今のは餌のイカとアジの切り身です」
 ホールの中に人影が現れ、ランプは確認しようとしてぐわりと体を下げる。
 ここに映ったのは私の姿である。
 私の顔が左後ろへ流れていって、映像は終わった。
「この上映をもちましてジュラシック館の解説ツアー終了とさせていただきます。皆様お聞きくださってありがとうございました」
 深く頭を下げると、塾長さんが拍手をしてくれて、子供達もそれに続いた。
 そして、特に大きな子を始め数人が塾長さんの腕を掴んで言った。
「塾長、まだこのホールにいていいですか?」
「まだ魚竜見たい!」
「ん、そうかい?じゃあそうしようか。みんな、まだ見ていこうか?」
 塾長さんが呼びかけると子供達はみんな賛成の声を上げた。
 怖がらせてしまったけど気に入ってもらえた。ツアーは大成功だ。
「私もしばらくここにいますので、ご質問があったらなんでもどうぞ!」
 子供達は水槽に取り付く子と私を取り囲む子の二手に分かれた。
 あの頃の水族館は、名前や建物はなくなってしまったけれど、本当になくなってしまったのではないのかもしれない。そうだといいと思う。
 少なくともランプはあの頃からずっと、流れる青の視界の中で暮らし続けてきている。
inserted by FC2 system