窓の外にはうちの畑が横たわり、そこに注ぐ春の日は傾いていた。
使わなくなったニワトリ小屋を改装して作られた飼育舎の中で、犬ほどの大きさの肉食恐竜、ヴェロキラプトルの「ムサシ」が起き出す頃だろう。
ヴェロキラプトル。知略と跳力、鋭い爪で獲物を奪い取る、小型肉食恐竜の一つの到達点。
しかししかるべき扱いさえできていれば家で飼うのは可能だ。
農道の向こうから黒い軽トラックが近付いてくる。
ムサシの親とも呼べる女性である、ブリーダーの月島さんのトラックだ。今日は月一回ムサシの散歩に付き添ってくれる日なのだ。
私のほうも中学のジャージから着替え、準備万端で階段を下りる。
居間から祖父がこちらを見て茶化した。
「おう、天狗の見習いかね」
「もう」
お年寄りにはそう言われても仕方がないくらいの重装備ではある。
丈夫なジーンズに革の手袋、広げればムサシを威嚇できる麻のポンチョ。
さらにブーツを履けば、ムサシが急に怒りだしても歯が立つまい。そんなのは避けたいことに決まってるが……。
玄関を出ると私とほぼ同じ格好をした月島さんが、軽トラックに背中をもたれて立っていた。
「やあ、真弓ちゃん」
「こんばんは」
すらりと高い背に長い髪、ほどほどの大きさのカメラ。同じものを着ても私よりずっと決まって見える、本物の天狗だった。
私が月島さんに駆け寄ったのと同時のことだった。
「キャキャキャキャッ!」
飼育舎から叫び声。
ムサシのではない。何か別の生き物だ。
私達は飼育舎に向かって走った。
金網とハウス用ビニールの向こうにムサシの姿が見える。
真っ直ぐはね上がった細長い尾、長い口と大きな目玉、薄茶色の荒い毛に覆われた小さく引き締まった胴体。
異形でありながら均整のとれた姿に、何か緊張感があった。
カラスの足を思わせる細い手と猛禽のようなたくましい足は何かを押さえつけていた。
足の爪は一つだけが大きい。
その左足の爪が、血に濡れた何かを突き刺していた。
私は息を呑んでそれを見つめた。ネズミにしては長く大きいそれは、もう動かない。
「ありゃ、イタチだ」
月島さんはもうすっかり事態を把握してしまったというように気の抜けた声を出した。
どこからかイタチが飼育舎に入り込み、無念にもムサシに捕まってしまったのだった。
「本物のニワトリ小屋のつもりで入ったか、あったかさにひきつけられたか……、どっちにしろ変なもの食べさせて腹を壊させるわけにもいかないよ」
「取り上げるんですね」
幸い、ムサシは踏み付けにした獲物を真っ黒い瞳でまじまじと見つめるばかりで、食らいつこうという気配はなかった。
ムサシは月島さんのところで産まれて以来人間に食べさせてもらってきた。狩猟の欲求はあってもそれからどうすればいいかは分かっていないのかもしれない。
飼育舎の床に敷かれた乾いた砂に、イタチの血が染み込んでいる。
月島さんはそっと扉の取っ手に手をかけると、一気に中に押し入った。
同時に両腕を上げてポンチョを広げる。
ムサシはイタチを放し、真後ろの棚板に跳び上がった。
棚板がガシャンと音を立てる。十キロの動物が跳び乗ったにしては軽い音だ。
そしてムサシは棚の上にしゃがんでこちらを見つめたまま、口を閉じて頭を下げ、月島さんに刃向かおうとはしなかった。月島さんのことを自分より強いヴェロキラプトルだと思っているのだ。
「いい子だ。こいつはいただいてくよ」
月島さんは悠々とイタチを拾い上げると、祈るように左手を顔の前に立てて目を閉じた。
そしてイタチをビニール袋に入れ、リュックに仕舞った。
私は濡れた砂をシャベルで掬って捨てながら聞いた。
「そのイタチ、どうするんですか?」
「うん。皮だけ剥いでとっておく。爪で穴を開けられた毛皮なんて、いい行動の記録になるからね。私がいないときにムサシがまた何か殺したらとっておいてよ」
こうしたブリーダーによる情報収集は、ヴェロキラプトルの生態に対する理解に貢献しているそうだ。
ムサシは棚の上でまだうずくまっている。そうして腕をたたみ、脇腹を腕に生えた固い羽に包んでいると、大きな荒々しい鳥のようにも見える。
じっとしているムサシに月島さんが近付き、身体の状態のチェックを始めた。
後ろ足の大きな鉤爪もきちんと切ってある。床の砂は乾いたままにしてあるから、充分に砂浴びをして羽毛は綺麗に保たれている。
さらに手の爪を見ようと月島さんが手を取っても、ムサシは動かなかった。流石月島さんだ。
「よし、相変わらず男前だね。さて」
月島さんはこちらに振り返った。言わんとしていることは分かっている。
私はムサシの首輪とロープ、口にはめるベルトと、足の鉤爪にかぶせるカバーを用意していた。
ある程度大きな肉食恐竜を外に出すときには口が開かないように、足に鉤爪があれば刺さらないようにしなければならないという規制がある。
散歩の前には毎日自分でムサシに付けているのだが、月島さんの見ている前だと試されているようで緊張する。
月島さんは私がムサシを上手く扱えるか確かめたいのだ。
今日に限ってベルトを嫌がり首を振るのではないか。カバーが付けられないように足を引くのではないか。
そんなことを考えてしまうが、私だってムサシと過ごした時間は長いのだ。ムサシはいつものとおり動かず支度させてくれた。
「行こうか」
月島さんは満足そうに言う。
私達が振り返ろうとするとムサシも棚から跳び降りた。
薄暗くなった畑の間の道を二人と一頭で歩いていく。
ムサシは常に先を行き、ロープが伸びきるたびにくるりと首だけで振り向く。
犬なら自分の横にぴったり並んで歩くようにしつけなければいけないとされる。しかしヴェロキラプトルではそんなことはできない。
ムサシはすすんで散歩に出るが、犬のように群れの原理で行動するわけではないからだ。
一旦出かけて連れ回し、その後で餌を与える。小さい頃からこの手順を守ることで、ムサシは食事の前には散歩、散歩の後には食事があると条件付けされている。
先へ先へと引っ張っていくムサシは、早く散歩を済ませて食事を与えるよう私に求めているのだ。
人間に慣れることはあっても主人に飼い馴らされることはない。人間に寄り添って進化した家畜と違って、太古の野性を失っていないのだ。ロープを持つ手に力がこもる。
月島さんは引っ張られる私ごとムサシの姿を撮っている。
我先に進むムサシだが、立ち止まることもある。
道の端に水たまりができていた。水を目にしたムサシは、その周りの湿ったところからも充分に距離をとって慎重に進んだ。
元々ヴェロキラプトルは砂漠の動物、湿り気は大の苦手だ。雨の日だけでなく雨上がりで道が濡れている日も散歩に行けず、出かけずに餌を出さなくてはならない。
そうしたムサシの一挙手一投足を、月島さんは写真に撮り続けている。
行動の記録としてだけではなくヴェロキラプトルが好きな人の需要があり、またヴェロキラプトルを飼いたい人への説明資料としても使える。
ムサシは先を急ぎつつも慎重に進む。
前方の何かを一瞬見つめたと思うと、いきなりそばにあった地蔵に跳び乗った。罰当たりな。
「駄目、ムサシ」
と言って聞くような生き物でもない。
ムサシは足の鉤爪で地蔵の頭をしっかりつかんで立ち、道の向こうを凝視していた。
月島さんのカメラのシャッターが早まる。
「何だろうね。あっ、あれだ」
月島さんの指差す先に、小さな光が見えた。自転車のライトだった。
二人とも全く気付かなかったが、本来夜行性であるムサシの鋭い夜目にはいぶかしいものに映っていたようだ。
自転車が近付いて通り過ぎる間ムサシは地蔵の上にじっと立っていた。
臆病な行為ではあるが、尾を上げてすらりとした立ち姿は絵になると思わせるものがあった。
ムサシが地蔵から降りて先に進むと、小川に沿った小道に出た。
脇に並んで植えられた桜はすっかり満開になっていた。わずかな街灯に照らされて薄紅色が夕空に滲んでいる。
「ああ、いいねえ。ちょっと桜の下に立っててもらおうか」
月島さんはそう言って、ペンほどの大きさの笛をくわえた。
フィフィフィ、フィフィフィ、と、規則正しいリズムで吹き鳴らす。
ムサシは月島さんを見つめたままその場に立ち止まった。
笛を吹きながら月島さんはしゃがみこみ、ムサシを見上げるようにカメラを構えた。
満開の桜をバックにたたずむムサシの写真を、微妙にアングルを変えて何枚も撮っていく。
私もその横にしゃがんで同じ角度でムサシを見上げてみた。
太古のモンゴルに広がった砂漠の動物であるヴェロキラプトルと、近代になってから人の手で作り上げられた園芸植物であるソメイヨシノ。
ありえないはずの奇妙な組み合わせだが、シャープなムサシの姿がふわりとした桜に意外とよく引き立てられていた。
これは、ムサシの写真を楽しんで見る人がいるのもよく分かる。
私だけで散歩するときにもこの道は通る。しかし私はただ桜が綺麗だなと思って見上げながら通り過ぎるだけでムサシと結び付けて見ていなかった。
今まで知らなかったムサシの姿が、ヴェロキラプトルをたくさん見てきた月島さんによって現わされていた。
家に戻る頃にはすっかり暗くなっていた。
解凍してあった餌をムサシの皿に盛ってやる。鶏肉に、カルシウム補給のためのよく茹でた鶏ガラ、様々な栄養が取れる丸ごとのマウス。
口のベルトと鉤爪のカバーを外すと、ムサシは長い鼻先を肉に突っ込んではついばんでいった。鶏ガラの骨もかじってしまう。
月島さんはすでに一仕事終えたような顔をしてムサシを眺めている。
「あの、この前の話ですけど」
私が話しかけると月島さんは顔を動かさずに手の平をこちらに向けた。
「ケージの中で気を抜くんじゃない」
低く鋭い声。それで私も、ムサシの食事を最後まで見届けざるを得なかった。
ヴェロキラプトルが好むのは鶏肉だが、鶏ガラも固すぎる骨の塊などなければ残しはしない。マウスはあまり好まないようだが、他を多くしすぎないようにすれば食べてくれる。
今日も少し大きい骨をいくつか残しただけで全て片付いた。
皿を取り、ケージの外に出る。
「それで、この前の話って」
月島さんが口を開いた。
「真弓ちゃんもヴェロキラプトルのブリーダーになりたいって話かな」
「はい」
月島さんは静かに微笑んでいる。
「なるにしても高校、いや大学も行っておくべきだけど……」
私はこの春から中学三年だ。
「あんまり先のある仕事とはいえないよ。特に役に立つ動物でもないし」
「それでもいいんです」
私も月島さんのようになりたい。ムサシだけでなく、多くのヴェロキラプトルと付き合っていきたい。
月島さんはゆっくりうなずいた。
「ムサシが順調だったらいずれうちに呼ぶよ。ハルナに会わせてあげるから」
ハルナはムサシの母親だ。私は写真でしか知らない。
まだ若い月島さんがこれほどヴェロキラプトルの扱いに熟達しているのはなぜかも、ヴェロキラプトルの扱いそのもののことも、私はまだ何も知らない。