Lv100第二十三話
「タラスク -美月とペル-」
登場古生物解説(別窓)
 朝六時、空気の冷たい季節になってきた。
 赤外線スポットライトの熱が座って見守っている私の膝にも心地良く感じられる。
 コンクリート造りの重厚な建物は、動物園らしく大型動物を寝かせる獣舎そのもの。
 ただし壁には分厚いウレタン材が貼りめぐらされ、腰ほどの高さに切り裂いたような傷がいくつも残されている。
 この寝部屋の主が脇腹や尾にずらりと並んだ三角の刃で引っ掻いてつけたものだ。
 今その恐竜、鎧竜の一種であるガストニアのメス、「ペル」は、頑丈な柵の向こうで重大な場面を迎えていた。
 四つの脚で支えられたテーブルのような平たい胴体は、棘や刃や甲羅で重武装している。小さな頭も頑丈な箱になっているし、長い尾を振ればそこら中のものが切り裂かれそうだ。
 ブフウ、ブフウと、荒い息遣いだけが響いている。
 ここには泥棒のデイノニクスも、ペルが弱るのを狙っているユタラプトルやアクロカントサウルスもいない。だから、どうか安心して。声に出して呼びかけたかったが、そうしたらペルはかえって不安がるだろう。
 ペルはたっぷりと盛られた土を後ろ脚で皿状にならし終えて、骨と鱗の板で覆われた広い腰を、その上に深くかがめた。
 そして尾が持ち上がり、ごつごつとした飴色の体はそれきり動かなくなった。
 私とビデオカメラはついにその瞬間を見つめることになる。
 尾の付け根にある裂け目が開き、白く丸くつややかなものが顔を出し始めた。
 ペルの初めての産卵だ。
 裂け目がゆっくりと慎重に広がり、真珠のような初子は柔らかな土の揺り籠に寝かされた。
 そうするとペルは起き上がり、二歩右にずれてまた腰を落とし息を荒くした。二つめの卵を産むのだ。
 ペルに私がここにいないつもりでいてもらえるように、私はタブレットで記録を取る手元以外じっと動かず観察を続けた。
 二つ目、三つ目と、卵を巣に産みつけていく。
 そうして、十個の卵が丸く並んで産み落とされた後、ペルはその上に後ろ脚でそっと土をかけた。
 全て終わったときには七時をまわっていた。

 その翌々朝の開園直後。
 ペルは巣から離れることなく見張りを続けていた。
 ここは世界各地に生息する動物を集めた動物園の北米エリア。ペル達二頭のガストニアは北米の恐竜代表としてこの動物園にいるのだ。
 トナカイやオオカミやバイソンの放飼場が、トウヒやレッドメープル、オークの生い茂る間に見られる。北米の森林をくぐり抜けて動物達に会いに行くかのようだ。
 そんな中、ガストニアの放飼場へと続く道の角には、灰色一色に塗られたトーテムポールが立っている。樹種はいきなりナンヨウスギやソテツに入れ替わる。一億三千万年のタイムスリップ。
 木組みの平たい建物が待ち構えている。これは軽食も出す休憩所だが、ガストニアがよく見えるようになっているのだ。
 そこに入ると、正面のガラス壁の向こうには大平原が広がっている。
 まず中央に見えるのはくの字に曲がった太い川だ。奥に向かって流れていき、その両岸はとても細かい砂の河原である。
 いくつかの塊になって植えられた植物が少しずつ視界を遮り、かえってずっと向こうの山までも放飼場が続くかのように見える。
 川の中には流木が置かれ、ガストニアが泳いで渡れないようにしてある。無用な接触、例えば今なら卵を守っているペルにちょっかいを出されることを防ぐためだ。
 たとえ左岸にいる卵の父親、オスのガストニア「ダグ」でもである。
 ダグは木々の影を避けて、たっぷりと幅のある体に朝日を浴びていた。
 前半身の鎧は楕円の板が整然と並んで出来ている。腰の鎧はモザイク状に鱗が敷き詰められたものだ。そして背中には長い棘がそそり立ち、脇腹には三角の板が連なる。
 隙がなくそれでいてつややかなそれらの装甲が、陽光の中に冴え冴えとその輪郭を現していた。
 胴体の高さは牛ほど、つまり一メートルほどしかないが、幅広さや装甲が存在感を増させているのだろう。来園者の口から、大きいね、と感心する声も聞こえる。
 じっとしていたかと思うと、ダグは前足の蹄で砂を踏みしめ、短い首を茂みに向けた。そして幅広のクチバシでシダの葉を無造作にちぎり取ってかじった。
 このシダは山菜のコゴミ、生で食べても毒性のほぼない種類を特別に植え込んだものだ。
 だからといってコゴミばかり食べさせているわけではなく、むしろコゴミをつまむのは餌が待ちきれないというサインだった。
 私は大窓の下にある小さな引き戸をそっと開けた。ダグが聞きつけて、こちらに踏み出す。
 引き戸のすぐそばに置かれた籠を取り替えると、ダグの歩みも早まる。籠の中身は青菜やニンジン、キャベツにサツマイモと、ガストニアがコゴミより好んで食べる野菜だ。
 ダグが籠に顔を突っ込んでそれらをくわえ取っていく様を、来園者は嘆息を漏らしながら、私は淡々と見届けた。
 そして来園者が皆いつもどおりのダグの食事を見ているわけでもない。
 昨日設置されたモニターを、この動物園の動物達を観察し続けている人や、ペルの産卵を聞きつけてやってきたらしき人が熱心に見つめていた。
 現在のペルの様子と産卵のときの様子を交互に上映している。ガストニアだけでなく恐竜を見慣れた動物好きにとっては当然そちらが優先だろう。
 なにしろペルだけでなくガストニアが産卵すること自体、国内では初めてのことだ。
 私の手元にあるタブレットにもペルの映像が届いている。
 卵を守らなければならないとはいえ、やはり空腹には抗いきれないのだろう。巣から逸れた方向を見ているようだ。
 安心して巣のそばにいてもらうためにも、早く餌をあげなければ。私は休憩所を出て、餌の乗った猫車を押していった。
 ペルの寝部屋は今は来園者入場禁止にしてある。
 飼育員である私でさえ、そう易々と入っていく気にはならない。
 普段からことあるごとにあの棘や刃を振りかざして威圧してくるのだ。壁や柵のクッションにいくつも残っている傷はその痕跡だ。
 卵を守っていればなおさらのはず。
 現に昨日餌やりに来たときに、新しい傷が柵に増えたのだ。
 さらに、そうしたときにペルが足元の巣にきちんと配慮して暴れるという保証はない。
 海外にはガストニアを始めとして鎧竜が自分の卵を踏み潰してしまった事例もいくつかあるのだ。
 ここはひとつ、タブレットの映像を活用してペルの機嫌を伺いつつ中に進もう。
 ペルは周りの様子を探るように、数十秒ごとに前脚のステップを踏んで前半身を左右に動かしていた。
 位置関係からいって、ペルが右を向けば従業員入り口が見えている。左を向くとよく見えていない。どちらのときに入っていくべきか。
 そんなに頭が良くはないとはいえ、ペルも従業員入り口から誰か入ってきたら食べ物が出て来ることぐらいは分かっている。そこを明確に認識させるために、こちらが見えているときに入ったほうがいいはずだ。
 再びタブレットに映像を映した。ペルは左を向いている。
 そして、左前脚に力を込め、こちらを向き始めた。
 今だ。私はノブを回しそっとドアを引いた。
 開いた入り口の真正面、柵の向こうにペルが立っている。
 ペルは頭をぐっと下げて右目でこちらを睨んだ。
 そして尾をぴんと伸ばして揺り動かす。やはり気に食わなかったのか。
 卵を守る母親になっても、鎧に覆われた無表情な姿は荒武者を思わせるもののままだ。
 しかし威嚇はそこまでで、ペルは餌箱の位置まで歩み寄ってきた。
 私はほっと息をつき、猫車を押し入れていった。
 ペルの見ている前で無事餌箱を取り替えることができた。
 ダグにさっき与えた野菜は、栄養を補助するのと植物を食べることを分かりやすく伝えるための副食だ。ペルの餌箱には、野菜と一緒に米糠をベースにした配合飼料が山盛り入っている。
 産卵後ということでカルシウムを混ぜ、大豆も多めにしてある。ペルは先の平らなクチバシで、野菜も米糠もいっぺんにくわえ取って平らげていった。
 タブレットのおかげで全て片付くまで見ていなくて済む。そっと後ずさりして後ろ手にドアを開けて出たが、ペルは餌に集中していた。
 行儀が悪く見えるだろうけど、休憩所に向かって歩きながらタブレットを見続けた。ペルは夢中で食事している。
 ダグが野菜を食べ終わったか見ようと思っていたのだが、休憩所に入ると一人の女性がモニターの前で来園者に取り囲まれていた。
 飼育員以外の職員用の制服を着て、きちんと髪をまとめて華やかな感じに見える。動物園の広報やITを担当している、平瀬さんだった。
「ガストニアはあんまり固くない植物を食べていたので、動物園では野菜や米糠を与えているんです」
 平瀬さんはイルカショーを思わせる、明るくよく通る声で来園者に解説していた。
 見た目も性格も明るくて話も上手いし、動物園の公式ブログに楽しい文章が書ける。その上、モニターとタブレットに映像を流す難しそうな設定まで器用にこなしてしまったのだ。
 本当に、私にないものをたくさん持っていると思う。
「さて、飼育員のお姉さんは無事ペルにご飯をあげられましたね!今そちらに戻ってきましたよ」
 平瀬さんが私のほうに手を向けた。
 急にこちらに話が向いたので戸惑ってしまい、なぜか拍手が起こる中ぎこちなく会釈をするしかできなかった。
 平瀬さんは私のほうに歩み出て、笑顔を見せた。
「ガストニアの扱いが上手いところをお客様に説明してたんですよ。ペル、神経質になってるはずなのにすごく素直でしたね」
「え、その、私もどうなるかと思ってて、平瀬さんのタブレットのおかげで」
 いきなり誉められて受け答えがしどろもどろになってしまった
 平瀬さんは気にせず来園者に呼びかけた。
「午前の餌やりは終わりましたけど私達はしばらくここにいますので、ガストニアのことでご質問がありましたら是非お聞きくださいね!」
 そうは言っても事が済んでばらけていく人が多い中、小さな女の子が歩み寄ってきた。平瀬さんにではなく、私のほうにだ。
「どうしたら、じょうずにいきものがかえますか」
 真っ直ぐ私の顔を見上げて、それだけ尋ねてきた。
 この子からも上手く扱っているように見えたのだろうか。とにかく何か答えないと。
「その、私の分かる範囲で生き物全てのことを言うことは、できないんですけど、やっぱりさっきやったみたいに生き物の動きや様子をよく見ることが重要で、でも例えば犬とかよりガストニアみたいに表情が少なくて懐かない生き物のほうが多いから、生き物に何が必要なのか、その生き物の性質からも考える必要があって、っていうことが大事だと思って」
 私なりに考えていることはあるのに全然上手くまとめられない。飼育員は説明もできないといけないのに。
「分かった?ちゃんと生き物のお勉強をして、生き物の様子をよく見てあげるんだよ」
 平瀬さんのまとめに私は激しくうなずいた。
「どうもありがとう」
 女の子は私に握手を求めてきた。平瀬さんは私の次だった。

 午後の餌やりも同じ要領で切り抜け、退勤間際になって。
「ちょっと事務のほうに寄っていってほしいんです。見せたいものがあって」
 平瀬さんから声をかけられて事務室に行ってみると、平瀬さんは自分のパソコンの画面を見せた。
 受信メールの一覧、今日すでに六ヶ所もの動物園からメールが届いていた。タイトルはどれも、ガストニアの子供を分けてほしいというものだった。
「あの、中身見ても、いいですか」
「もちろん!ね、すごいでしょ。みんな期待してくれてますよ。まだ産まれてもないのに」
「ガストニアなら当然です」
 ついそんな風に切り返していた。
 平瀬さんは可笑しそうににっこりと笑っている。しかし私は本当にどこの動物園もガストニアを欲しがるだろうと思って言ったのだ。
 いつだってあのいかめしくも壮麗な鎧に半分見とれながら世話をしているのだから。
 いい評判ばかり聞く園もあれば、すぐには思い出せないようなところからもメールが来ていた。実際にどの動物園がもらっていくかは、動物園水族館協会での話し合いで決まるだろう。
「私は飼育には手が出せませんから、ペルの子供達のことよろしくお願いしますね」
「は、はい」
 アメリカでの事例に基づくと孵化まであと三ヶ月半はかかる。
 その後も当然、まだ小さな子供達を注意して見ていなくてはいけない。
 それを乗り切ってみせれば、日本各地にガストニアが広まるのだ。この動物園はそれらを引っ張っていく存在になるだろう。
「あの、今、ペルの映像って」
「見れますよ!ちょっといいですか……」
 平瀬さんがマウスを手に取り操作すると、映像のウィンドウが立ち上がった。
 ペルは巣のすぐそばに伏せて、尾を巣に沿わせて曲げ、頼もしい砦のようになりながらも穏やかに眠っていた。
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