Lv100第十二話
「摩伽羅(マカラ) -菜緒とゼロツー-」
登場古生物解説(別窓)
 この静かな海辺の田舎町にあって、ひさのはま海竜館の小判型をした建物はよく目立つ。
 右側を祖母がゆっくりと歩み、左手を姪が激しく揺さぶる。両方に合わせるのはなかなか難しい。
「ごめんね、なっちゃん。お休みの日まで案内させて」
 祖母の気遣いに私は首を横に振った。祖母は柔和な笑顔で見上げてきた。
「博物館ができたおかげでなっちゃんが帰ってきてくれたんだから、ちゃんと見ておかなくちゃと思って」
「えー、すいぞくかんでしょ?」
 古生物学を学んできた私が働いているのだから博物館だと祖母は思っているが、姪は水族館だと聞かされたらしい。どちらでもあるという施設が最近はますます増えてきた。
「おばあちゃんが見ても面白いか、分からないけど」
「あら、きっと面白いわよ。なっちゃんが小さい頃から色々教えてくれたもの」
 そういえば子供の頃は逆に祖母が博物館に連れて行ってくれたのだった。
 花崗岩でできたエントランスホールに足を踏み入れると、姪は腕を引く力をますます強めてきた。
 それを押し留めて入館ゲートをくぐり、エレベーターで展示順路の始まる最上階へ。
 上がった先は、青空に包まれた三ツ森渓谷だ。
 小部屋の中に作られた実物大のジオラマの中で、木々と岩に囲まれた小川が流れる。足元には引き続き花崗岩の飛び石が並んでいる。
「おおー……」
 姪の足が止まった。
「大久川の始まるところ。見たことない?」
「なーい」
「大久川の周りは八千九百万年前からの地層がむき出しになってて、一番始まりでは、その地層よりもっと下の岩が見えてるの」
「この御影石?」
「そう。阿武隈山地は御影石が採れるでしょ」
 祖母はぽかんとした顔を見せた。
「どうしたの?」
「うん……、なっちゃんが立派な学者さんみたいになったなあ、と思って」
 それほど特別な内容ではないのにと、私は苦笑を返した。
 飛び石を辿ると灰色の砂岩に入れ替わり、林もすぐに終わって均一な灰色のトンネルになった。
 ハンマーで岩を割る音が流れている。双葉層群で最初の地層、足沢層の展示が始まった。
 トンネルの壁にはガラスケースが並び、化石が展示されている。アンモナイト。二枚貝。サメの歯。簡単に紹介しながら進んだ。
 それを阻むように、道の中央に二つの円筒が並んでいる。
 いずれも上部が透明で、中身はミカンほどの大きさの二枚貝である。ただし、手前のものは白っぽい化石。奥のものは、黒光りしながら海水の底に立つ生体だ。
 足沢層の示準化石、イノセラムス・ウワジメンシス。
 気が付くと姪が先程までの勢いをすっかり失い、祖母の脚にしがみついていた。
「こわい」
「あら、どうして?綺麗だから怖くないよ」
 祖母はトンネルの出口を指差してみせた。水槽を通過した陽光が揺らめいているが、姪はそちらを見ようとしない。
 ここが世界の分かれ目だと見抜いたのだろう。
 私は姪を抱え上げ、顔を私の首筋に押し付けるがままにさせておきながらトンネルを出た。
「わあ……」
 祖母の声に姪は顔を上げた。
 床に下ろしてやると、すぐさま左手の大型水槽に張り付いた。そこでは、細かな砂地の海底が緩やかに傾斜しながらずっと奥まで続いている。
 水の中にはほのかな青磁色をした円盤が十四、漂うように泳いでいた。
 近くを横切る一匹は大きさが一抱えほどもあり、下の方に白い触手と顔がある。
「この辺りでたくさん見つかるアンモナイトの、メソプゾシア」
「アンモナイトセンターそっくりね」
「うん、あの地層の再現だから」
 アンモナイトセンターはこのメソプゾシアの発掘された施設だ。初めて行ったときは祖母に連れて行ってもらったのだが、覚えているものなのか。
 そのときは私が何時間も飽きもせずにアンモナイトを眺めていたものだから、祖母はついベンチで居眠りしてしまったのだった。
 この水槽は砂岩の地面にたくさんのメソプゾシアが顔を出すアンモナイトセンターの情景そのものだ。こんな海底が固まって足沢層になったのだ。
 海底に沿った緩やかな階段を下り、水槽の途中に立てられた仕切りを越えた。
 そちらには別の生き物が三頭いる
 人間より大きな動物が、四つの鰭を羽ばたかせて縦にかすめ去った。
 離れていくと、ワニとペンギンを混ぜたような姿が分かる。
「はやい!」
「トリナクロメルムっていう、海の爬虫類」
 細長い口には細かな牙が整然と並んでいる。眼は黒く丸い。肢は全てペンギンの翼に似た鰭になっていて、カプセル状の胴体を自在に推進させる。
「こんなのも昔この辺りにいたの?」
「いわきで見つかったのは少し違う種類のはずだけど、その化石は珍しすぎるから。この種類は水族館でよく飼われてるの」
 水槽に沿って階段を下るうちに一頭がこちらに気付き、近寄ってきた。
 繰り返し顔を覗き込んでくるトリナクロメルムを姪はすっかり気に入ってしまったらしい。階段を下りた先の広間に着いても水槽から離れなかった。しばらく好きに見せておいたほうがよさそうだ。
 窓に囲まれた広間では、肋骨が密に並んだトリナクロメルムの骨格と、馬のような形の恐竜ハドロサウルス類の骨格が待っていた。
 他にも化石がいくつも並んでいるし、壁に埋まった水槽には小型のアンモナイトがいる。
 外には海と小さな駅が見える。
 家族連れが二組と、他にも何人か、駅からこちらに向かう道を歩いていた。両脇の飲食店や土産屋には心なしか繁盛ぶりが見て取れた。
 祖母もその光景を見下ろし、微笑を浮かべていた。
「館長さん、市から表彰されたのよね」
「何も言ってなかったから、ここのみんなも新聞見るまで知らなかったの」
「真面目なのね。なっちゃんと同じで」
 やがて姪は水槽から離れ、袖を引いてきた。トリナクロメルムが姪から興味を失ってしまったようだ。
 次の展示室は再び川のジオラマだが、
「昔の大久川?」
「これは、八千六百万前に流れてた別の川」
「ジャングルだ」
 姪がソテツに似た植物の幹を叩いた。
 壁や天井には真っ赤な夕焼けが描かれている。床には落ち葉が敷かれ、植物の模型が林立する。黒い飛び石が並び、大きく蛇行した水路と交差する。
「さっきの海が一旦退いて、川が流れる平原になったの」
 氾濫原で堆積した笠松層の化石は少なく、このコーナーに生き物はいない。針葉樹の幹に琥珀の展示ケースが埋め込まれている。
 川が三つに枝分かれし、玉山層の時代へ。
 私は一本の木の幹を指差した。観察窓の中には小さなアリが巣を作っている。
「これは今のオオハリアリっていう種類だけど、琥珀の中からアリが見つかったことがあって」
「こはくってなに?」
 説明し忘れていた。
「樹液が長い間地面に埋まって硬くなったものを琥珀って言うの。ここにあるみたいに、海まで流されてから」
 アリのいる木の枝から樹液が滴り落ちる様子が、プラスチックで形作られている。川はその真下から透明な板に覆われ、樹液の玉が下流に向かって点々と並ぶ。
 辿っていくと、暗く青いスロープに続く。床でオレンジ色の丸いステップが光っている。
 姪は私の手を握り、先導を促した。足元が良くないので反対の手で祖母の手も握っておいた。
 樹液になって川を下り、海の底へ。双葉層群の最後を飾る、玉山層上部の時代へ。
 再び二枚貝のイノセラムスが二つのケースに収まっている。今度は白菜ほどの大きさがある、八千五百万年前のアマクセンシス種だ。
 それを通り過ぎて藍色の大広間に着くなり、姪が手を離した。
 制止する間もなく姪は、植物食恐竜ラペトサウルスの頭の下を駆け抜ける。天井から吊り下げられた、首長竜のタラソメドンやモレノサウルスの下をくぐっていく。壁の水槽に向かうが、そこから覗く大型のサメ、クレトラムナの凶貌に飛び退く。
 祖母の声にも振り返らず、フタバスズキリュウの復元骨格と産状レプリカの傍らを過ぎる。
 私と祖母がようやく追いついたのは、姪が一番奥の水塊に到達した頃だった。
 祖母は姪を叱ることを忘れてしまった。
 直径三十メートル、深さ七メートル。巨大な水槽の柔らかく光る水の中に、三頭の細長い生き物がたゆたう。
 薄い灰色をした紡錘形の胴体を四枚の鰭が支え、それよりも長い首はなだらかな曲線を描いて前方に伸びる。細い首の先を丸めただけのような小さな頭は海底の砂を見下ろしている。
「これが、」
「フタバスズキリュウ」
 私が担当し、幸運にも世界に先駆けて飼育を成功させているエラスモサウルス類だ。ここでの試みが軌道に乗れば、トリナクロメルムと同じようにフタバスズキリュウの飼育展示が広まるかもしれない。
 もし今日に限って体調が悪かったらと思ったが、その心配もいらなかった。
 七メートルになる一頭の成体が首を緩く右に曲げてそっと旋回した。二メートル程度の幼体二頭は底に立つイノセラムスをつついて遊んでいるところだ。
「あの貝を食べるの?」
「ううん、硬いものは噛み砕いたり飲み込んだりできないの。あれを見てて」
 ちょうど底砂の掃除をしにダイバー姿の同僚が潜っていた。
「あのひとたべられちゃうの?」
「まさか。ほら」
 同僚は密閉容器からさばいたイカを取り出し、こっそり砂に埋めた。
 何食わぬ顔で掃除を続けてもフタバスズキリュウ達にはとっくに覚えられている。成体が首を同僚の背後に垂れ下がらせ、顔を砂に突っ込んだ。
 それから顎を動かしながら砂をかき分け、再び頭を上げて左右に振った。隙間の開いた熊手のような歯から砂がこぼれ、口の中にはイカだけが残った。
「上手ねえ」
「じょうず!」
「これ以外芸はできないよ」
「あら、充分じゃない」
 イルカと同じものを首長竜に求める来館者もいるのだ。
 三頭とも同僚のあとについて奥のほうに進み始めた。それでもよく観察する方法がちゃんとある。
 水槽の底を貫くトンネルに入ると、頭の上に青く煌めく水面が覆い被さる。屈折の影響が減じたため、成体の首も鰭もますます大きな姿になってすぐ横をかすめていく。
 幼体もすぐそばで可愛い鰭を動かしているのがよく見える。姪が手を振って声を上げた。
「この子達、名前はあるの?」
 祖母の質問に私は一瞬答えをためらった。
「名前らしい名前は付いてないの。このフタバスズキリュウは化石から再生されたものだけど、化石になったフタバスズキリュウと同じ個体とは言えないから。化石と名前を結びつけられないようにね」
 このあたりに関しては、海竜館は博物館寄りの姿勢を取っている。祖母も姪も納得しきれないようだ。
「じゃあなんてよんでるの?」
「うん、一番大きいのが、「Fs02」。いつもは、ゼロツーって言ってる」
 本当にただの番号でしかない。復元骨格がFs01で産状レプリカが03、もちろん幼体は04と05だ。
 祖母はまだ釈然としないようだったが、姪は「かっこいい!」と全面肯定した。
 さらにゼロツーに向かって両手を振り上げ番号を連呼するので、祖母も彼女が気に入ったなら良しとした。姪はおろか私が呼んだとしても反応しないのだが。
 トンネルの先にはエレベーターと階段がある。祖母のことを考えても、ここはエレベーターを選んだ。
 順路の終着点は丸い水面を取り巻く回廊だ。
 左右は白い壁に囲まれ、奥には骨格展示室の暗がりが見える。その中心で水は静かにうねりながら光の曲線を描く。
 アンモナイトの殻がいくつか浮いている。フタバスズキリュウ達のおもちゃとして入れられた模造品で、淡い緑と桃色に塗られている。
 ゼロツーが水面に近付いてきた。
 首をそっと持ち上げると楕円の顔面が水平のまま浮かび上がり、すっかり空気中に現れた。
 ちょうどこちらを向いてゼロツーは息を吸った。
「笑ってる」
「え?」
「ほんとだ」
 確認する前にゼロツーは潜ってしまった。
 規則的に牙の並んだ、裂けたU字の口。笑っているように見えるかもしれない。毎日見ているのに、そんなことは思いもしなかった。
 ゼロツーの影はゆったりと漂う。
 首を曲げて離れていく後ろ姿に、祖母は突然、手を合わせて拝み始めた。
「どうしたの」
 こんなことをする来館者は初めてだ。
 口の中でだけ声を出してから祖母は顔を上げ、目一杯の微笑みを見せて答えた。
「なっちゃんを連れて帰ってきてくれて、ありがとう、って」
 連れて帰った。たまたま故郷にできた施設で飼育研究をすることになっただけだと思っていたが、祖母はそう感じていたのか。
 自分の町で見つかったこの美しい生き物に昔から惚れ込んできた。フタバスズキリュウのために久ノ浜に帰ってくるのは必然だったのか。
「そうだね。ありがとう、三頭とも」
 ゼロフォーが顔を上げ、ゼロツーとゼロファイブが続いた。
 今度は私にも笑顔に見えた。
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