Lv100第十話
「アッコロカムイ -菊乃とアンモナイト館-」
登場古生物解説(別窓)
 雪の降る水曜日である。
 学芸員の私は出勤して当然だが、今日は案内所で座っているだけになるだろうと思っていた。
 北海道中から発掘されたアンモナイトが集まり、このアンモナイト館で再生され飼育されている。ここはとにかく水質が良く、静かで景観も美しく、そして何より、交通の便がよろしくない。
 来るはずだった大学の研究者さえ、今日は遅れると連絡があったらしい。
 十一時前。一応バスが目の前まで通っているのだが、稚内をどんなに早く出たとしてもこのくらいの時間にはなるだろうなと思った。
 一人でも見学者のかたがいらしてくださればガイドツアーがやれる。私自身ここが大好きで、意味もなくじっとしていたくはないのだ。しかしその望みはない。
 だから、白く光る入口の外でバスから人が降りてくるのが見えたとき、思わず立ち上がってしまった。
 券売機で入場券を買っているその人はしかも、私と同年代の女性だった。ダウンジャケットを着込んではいるが、どこか道内の冬に慣れていない感じがする。肩から下げた鞄はカメラバッグだ。
 私は扉を押して入ってくる彼女に歩み寄った。
「アンモナイト館にようこそ!」
 入場券ごと彼女の手を握ってしまいそうな勢いだったが、見学者さんは柔らかくほほえんでいた。ショートカットの髪も都会的で上品な感じがする。自分のダサい制服と後ろでまとめただけの髪が恥ずかしい。
「雪の中大変だったでしょう。こちらのロッカーをどうぞ」
「どうも。どうしても今日しかなかったんですよ」
 そう言いながら上着とマフラーを押し込むと、黒いセーター姿の彼女の手にはカメラが一台残った。
 二十センチはありそうなレンズの付いた、そのカメラの立派なことといったら。
「ちょうど仕事の谷間と飼ってるものの餌やりの谷間が重なって」
「あ、何か飼ってらっしゃるんですね」
「色々。アンモナイトも」
 この人、熱心だ。それも半端ではない。案内など必要ではなく、むしろ煩わしいだけかもしれないが。
「その、私館内のガイドツアーを行っているのですけど……、もしお邪魔でなければ、いかがでしょうか」
「あっ、助かります!」
 こちらこそ、という感じだ。
 さらに余計かもしれなかったが、私は一旦受付台に戻って手提げ籠を取った。中身は、赤いリボンの結び付けられた小さめのアンモナイトの殻だ。
「クリスマス前なので、こちらガイドツアーに参加される方へのプレゼントです」
 私がそれを差し出すなり彼女は目の色を変え、黄色い声を上げた。
「メタプラ!」
「は、はい。メタプラです!」
 彼女が一目で言い当てたとおり、今回配布している種類は白く薄い皿に似たメタプラセンチセラスであった。彼女はそれを受け取るとうっとりと細い指先で撫でさすり、かすかな筋や小さなへそ、その周りの黒い突起の感触、内側の真珠光沢を味わっている。
「施設ならではの種類ですよね……、化石もいいですけど生殻も綺麗ですよね」
「気に入っていただけてよかったです」
 彼女は私の手渡した新聞紙で丁寧にメタプラをくるみ、カメラバッグのポケットに収めた。最初に落ち着いた雰囲気だと思ったのとは打って変わって無邪気な子供のようになってしまった。
「それでは、さっそく始めていきますね」
「はい!」
 このアンモナイト館は順路を上から見るとアンモナイトをかたどっている。エントランスはすぼめた腕の先端に当たる。
 腕の根元、頭部が最初の展示室だ。
「ここはアンモナイトとはどんな生き物なのかをご説明するお部屋です。アンモナイトは今の生き物で言うと何の仲間か、ご存知ですよね」
「軟体動物門・頭足綱・鞘形(しょうけい)亜綱。イカに近い仲間です」
「お見事!そのとおり、殻はありますけど、そこにいる巻貝やオウムガイより、そのイカに近い生き物なんです」
 円筒の壁に並ぶサザエとオウムガイ、そしてコウイカの水槽を順に示すと、彼女も手早くシャッターを切った。
 そして中心の円柱型水槽には、小型のドウビレイセラスが四匹漂っている。出っ張りのたくさん付いたオレンジ色の殻はあるものの、軟体部はイカと同じ十本足、大きな半円形の目。
「うちの子より殻の色が濃いです。やっぱり餌とか水質ですかね」
「ドウビレを飼っていらっしゃるんですね」
「はい、あとスカフィテスと、アンモナイト以外も色々」
 明るく話しながらも、彼女の目は輝きながらカメラのディスプレイ越しにドウビレを追う。解説と一緒に添えられた化石も見逃さない。
 ふと彼女は顔を上げ、向かいの壁にある標本に向かった。ドウビレの殻を半分切り落とし、保存液に浸したものだ。
 殻の大半は複雑な曲面を描く隔壁に仕切られた気室で、浮力を確保する。軟体部は住房という一番外側の大きな部屋しか占めていない。腕に吸盤ではなく爪が生えているのもよく見える。
「住房の中でどうなってるか初めて見ました!そっか、外套膜が……」
「共同研究してる大学のかたが作ったんですよ。軟体部に傷を付けないのが大変だったそうです」
「ですよね!でもこうしないと分からないし」
 彼女の興味は生体だけでなく化石や、再生個体の標本にも及んでいるようだ。
 のみならず、北海道の地層の構造を示す模型の説明まで頷きながら集中して聞き、付随する化石や岩石を順番に撮影していく。先程は無邪気な子供のようだと思ったが、ここは子供相手では飛ばしがちになってしまうのがお決まりのエリアだ。今はむしろ彼女から大人の知的好奇心を感じる。
 地層模型の傍らで、大きなエビの化石と、それそっくりの住人がいる水槽がセットになっている。
「後に北海道になる白亜紀の海底が今より暖かかったことを目に見える形で示すのが、このリヌパルスです」
「あ、こっちは現生種ですか?沖縄の水族館で見ました」
「はっ、はい。沖縄から送ってもらったハコエビです」
 解説する間も無く当てられてしまった。この水槽にいるエビは化石から再生したリヌパルス・ジャポニクスではなく、沖縄の海で捕獲された現生のハコエビ、学名リヌパルス・トリゴヌスだ。
 鋭さと見識の広さに唖然とする私にかまわず、今は大雪が降ったりするのに、などと言いながら化石とハコエビを交互に見比べている。
「リヌパルスの化石は再生してないんですか?」
「バックヤードにはいるんです。再生されたばかりで展示はまだ準備中ですけど、写真なら」
 水槽の下にぶら下げてあったファイルを渡すと、彼女はそっちまで撮影し始めた。ハコエビとの違いが分かるところはどこか私に聞きながら念入りに。
 彼女の質問に答え、知識欲を満たさせていくのが本当に気持ち良い。混雑する休日でなく貸し切り状態の今日彼女が来てくれたのは幸運だ。
「さあ、次はいよいよ殻の部分に当たる展示室「シェルギャラリー」です」
 扉のない門の先は、一転して深い群青の世界。
 立ち並ぶ光の柱、その一つひとつが水槽兼標本棚だ。
 彼女の息を呑むのが聞こえた。シャッター音が続く。
 円形の床は円錐状に浅く傾斜が付き、中心のエレベーターに近付くほど高い。六本の等高線が引かれ、それぞれの段に円柱型水槽がいくつも乗っている。
「今私達が立っているのが白亜紀前期の終わり、一億一千三百万年前のアルビアン期の層です」
「じゃあ真ん中のところが六千六百万年前の」
「はい。一番上が白亜紀の最後、マーストリヒチアン期です。同じ段のまま左回りに進むと、道内の化石産地を北上することになります。螺旋に見ていくのがおすすめです」
「じゃあ、そうしましょう」
 手前の水槽には再びドウビレの姿が、ほのかに青白い照明の中で揺れている。
 近付いて手すりのような部分に触れた彼女は、それが化石を収めたケースであることに気付いた。もちろん道内産のドウビレの化石だ。
「全部化石も展示してるんですか?」
「はい。再生するのに使ったのは別の化石ですけど」
 同じ段にある隣の水槽には、ドウビレと違って装飾が抑えられたオーソドックスな姿がある。
「アナゴードリセラスはアルビアン期以降全ての時代で見つかる、とても繁栄した種類です」
「大きい」
「ちょっと手狭ですね」
 三十センチ近い殻をガラス面に当てたまま、腕の下にある漏斗から水を吹き出し続けていた。
 そんな少し滑稽な行動もカメラに収めてから進むと、かすかに波打つ水を通した光が床に映っている。案内するまでもなく彼女は天井を見上げた。
「あっ、ベレムナイト?」
 透明な天井の向こうを、矢印形をした影の一群がゆっくり通り過ぎるところだった。ベレムナイトは体の外側ではなく内側に殻を持つイカの仲間である。
「上の階の大水槽を見上げられるようになってるんですよ」
「そっちは遊泳性のものもいるんですね。待ち遠しい」
 ちょうど彼女が続けざまにシャッターを切っているところに、丸い影が光を遮り、すぐ去った。
「今のって」
「撮れましたか?」
「はい」
 影の主がまた廻ってくるまでは時間がかかるだろう。このフロアを進むよう勧めた。
 壁際には道外のアンモナイトも展示されている。例えば、和歌山から来たプラビトセラスは、「異常巻きアンモナイト」だ。途中まで一見普通に巻いているように見えるが、成熟が近付いた途端逆方向にひねり込んでハテナマークになってしまう。そんな成長を記録したパネルも彼女を楽しませた。
 さらにその向こうの壁は、バックヤードの展示だ。化石をクリーニングする作業台、再生のための設備、餌の魚介類をさばく様子、展示室に移る前の子供のアンモナイト達や研究中の種類が、ガラス越しに覗ける。
 見えるところを全部見てしまおうとする彼女に先輩の職員が気付き、プラビトの子供が入った水槽を見やすくしてくれた。
 アルビアン期の輪を一周して、一段、また一段と時代を進む。
 数十匹もいるセノマニアン期のガビオセラス、ばら撒いた飴玉に見える。直径は二センチ程度、厚みも同じくらいでほとんど球状だ。それが白く寸詰まりな顔と腕を覗かせ、水槽内をぶつかり合いながら泳ぎ回っているとなれば。
「可愛い!」
 と、ストレートな一言。
 普通の巻貝そっくりなのは、異常巻きのマリエラ。小指ほどのマリエラ・パシフィカから手に乗せたらはみ出しそうなマリエラ・オーレルティ、三十センチはあるマリエラ・レウェシエンシスまで、いぼの並んだ殻を立てて腕で底を歩く。いぼの形が違うツリリテスやハイポツリリテスも。
「本当に巻貝とかヤドカリみたいですね」
「でも、よく見ててください。泳ぐこともありますから」
 一匹のパシフィカが、砂を撒き上げてジャンプした。漏斗から下向きに水を吹き出したのだ。放物線を描いて再び着地。
「こんな風に」
「なるほど、頭足類の泳ぎ方ですね」
 セノマニアン期とチューロニアン期の境界線は他より太い。
「この時期に大規模な環境変化があったと考えられ、発掘されるアンモナイトの種類も入れ替わっています」
「異常巻きが増えましたね!」
「はい。ただし先程までのマリエラやツリリテスの仲間はもういなくなっています」
 螺旋は螺旋でもコルク抜きに似た縦長のユーボストリコセラス、蛇行を繰り返すリュウエラ、正常巻きと言うには緩すぎるムラモトセラスにスカラリテス。
 一つひとつに歓声を上げる彼女だが、
「その、あれがいませんけど」
 鋭い疑問を発してくれて、こちらもにやけてしまう。
「最後のお楽しみですから」
 全く出来すぎた話だが、ユウバリセラスは薄く柔らかい朱色をしている。冠した地名から誰もが連想する甘味が口の中に蘇る。殻の表面に整然と並ぶ滑らかな凹凸はそれっぽくないが。
 コニアシアン期のエゾイテスも異常巻きだが、数字の9のような形はやや大人しい。大きさもせいぜい親指程度しかない。コンボウガキという、当時の海底にたくさんいた長い殻を持つカキの間で、十六匹も漂っている。
 そう言えば彼女はよく似た形のスカフィテスを飼っているそうだが、
「殻の模様が全部違いますね!」
 流石、目の付け所が違う。
 サントニアン期のメヌイテスは太い棘だらけで、ドウビレの小さな出っ張りとは比べ物にならない。軟体部にまで無数のひだがある。白い砂の上では派手に見えるが、底に留まるところを見るとむしろオコゼのようなカモフラージュだったのかも知れない。
「メヌイテス自身を再生しただけでは、メヌイテスの本当の暮らしは分からないんです」
「まだ研究することはたくさんあるんですね」
 アナゴードリセラスは度々再登場する。現生種の展示なら何度も出てくるのは奇妙だが、ここでは発掘される地域と時代の幅を表現している。
 最後から二番目のカンパニアン期は、産出する化石の上では多様性の頂点だ。中心に近く狭い段に水槽がひしめき合う。
 長いトロンボーンそっくりのポリプチコセラスが底をなぞる。巻き上がったフレンチホルンはアイノセラス、大きく揺れながら水面近くをたゆたう。異常巻きと言いながら巻いてすらいないバキュリテスは真っ直ぐなクラリネット。円錐螺旋の下からフックが飛び出したディディモセラスをト音記号にするのは、流石に苦しいか。
 賑やかな多様性と響き合って彼女のシャッター音と嬌声もいっそうテンポを速め、私の説明までつられて弾む。
 白亜紀最後の時代、マーストリヒチアン期の地層は、北海道では他の地層に削り取られてしまいわずかしか残っていない。円錐にUの字を繋げたノストセラスと、最後のアナゴードリセラスが白亜紀とシェルギャラリーの終わりを静かに告げる。
 中心に立つエレベーターには、上下両方のボタンがある。上のボタンを押すと扉はすぐに開いた。
「さっき見えたのが上にいるんですね」
「はい。円柱型水槽では狭くて飼育できない種類を集めたドーナツ型水槽です。別々の時代や地域のものが混ざっていることから、「時の回廊」と名付けられました」
 そう言い終える間もなく、水塊が姿を現した。
 シェルギャラリーの床と逆の傾斜が付いた天井に押しやられるように、彼女は青い面に引き込まれていく。擬岩に覆われた柱とアクリルガラスをすり抜けて、床と同じ高さの底砂に踏み出してしまいそうに見えた。
 先程のベレムナイト、ネオヒボリテスの一群が横切り、メタプラの大艦隊を追い越していく。
 プラセンチセラスの姿もある。一見メタプラそっくりだがずっと大きく、へその周りに突起はない。腕をすぼめて精一杯の流線型を演じている。
 これらは皆イカと同じで漏斗から水を吹き出して泳ぐが、殻の幅がものすごく小さいハウエリセラスは膜で繋がった腕を優雅に広げて水をかく。ごつごつしたハイパープゾシア達、五十センチかそれ以上の大型種は底の方に留まる。
 アンモナイトと、その間をかいくぐるネオヒボリテス。文字盤と針が分かれて私達を取り囲んでいた。その流れは、
「なんだか、のんびりしてますね」
「この水槽は当時の緩やかな海流を再現しているんです。白亜紀には極地にも氷がなく南北の温度差が少なかったので、水温の違いによって生まれる海水の大きな対流も弱かったんです」
「アンモナイト向きの時代だったんですね」
 しかし、目の前には見慣れたような姿が飛び込んできた。
 巨大な水平の円盤、短いクチバシと黒い瞳、羽ばたく長い鰭。まさしくウミガメだ。
「さっきの!」
「オサガメの祖先、メソダーモケリスです」
「鱗板がなくてつるっとしてますね」
 メソダーモケリスの甲羅は中央以外灰色の柔らかい皮膚に覆われている。
「遊泳力を優先して甲羅を軽量化したんですね。今のオサガメにも引き継がれた特徴です」
「そんなに泳ぎが上手いんですか?」
「オサガメほどではないですね。もしそうだったら飼育できる施設はなかったと思います」
 現生種は飼えないのに化石種は飼える、おかしな巡り合わせの一例である。
 メソダーモケリスについていって水槽を辿ると、一階から見えた透明な床の隣に擬岩のついたてがあった。その下流側こそ、ここのボスの特等席である。
 直径一メートルを超える、黒光りする重厚な殻。張りのある灰色の肌、太い腕にずらりと並んだ鉤爪。しゃがんで目を覗き込む彼女の口から、畏怖を現す嘆息が漏れた。
「北海道で最大のアンモナイト、パキデスモセラスです」
「すごい……、ここから動かないんですか?」
「あ、たまに浮かび上がって一周することはあります」
 ちょうどそう答えたとき、パキデスモが擬岩に爪をかけた。
 重そうに見えても殻の中身はほとんど気体だから、簡単に持ち上がり流れに乗る。腕から力を抜いて後ろになびかせ、パキデスモは悠然と巡回を始めた。
 メタプラやネオヒボリテスが警戒し、道を空ける。整然とした回転は崩れた。メソダーモケリスはパキデスモに追いつきそうになる大分手前でターンした。
「メソダーモケリスはパキデスモが怖いんですか?」
「そうですね、前にちょっかいを出して墨を吐きかけられたんです。そのときのことを覚えてるのかもしれません」
「それって水が濁って大変なんじゃあ」
「元に戻すのに三日かかりました」
 彼女と私は苦笑を交わした。彼女もきっと飼っているドウビレに墨を吐かせてしまったことがあるだろう。
 パキデスモが岩陰に戻っても彼女の中で余韻が冷めないらしい。エレベーターを取り囲む棚の中の化石を生体と見比べている間も、うっとりと満足そうな目をしていた。それも一通り負えて長い息をついたりするので、こう言わずにいられなかった。
「最後のお楽しみをお忘れではないですか?」
 彼女の目が再び見開かれた。私はエレベーターの下ボタンを押し、彼女を先に乗るよう促した。
 地下一階へ。
「元々地下一階は予備の展示室だったんです。職員が夜間点検でニッポニテスの生態に気付いてから急いで改装されて」
 やや深いとはいえ、またすぐに扉が開いた。
「特別展示室「ミラビリウム」に生まれ変わりました」
 薄暗い部屋の中、ケースに収まった化石が一つ、スポットライトに照らされている。
 握り拳ほどのそれはからまったロープの塊にも見える。立体的に蛇行を繰り返す最も「異常」な異常巻きアンモナイト、ニッポニテス・ミラビリス。
 彼女はその脇を素通りし、緞帳をくぐった。
 向こうには青い光がいくつも揺らめいている。それらはいびつな輪郭をしていて、ぼんやりと静止しているものと、その上を明滅しながら少し進んでは止まるものがあった。
 やがて目が慣れてその正体が見えてきた。
「見えますか」
「はい」
 光は全て同じ形をしている。乱雑に見えて実は規則性のある、ニッポニテスの殻の影だ。
「ニッポニテスの腕のうち一対は、先端に発光器官があります。それを殻の空間に差し込んで、仲間同士で通じる影絵のサインを作っています」
「泳いでるのがオスですか」
「はい、ホタルと同じで止まっているメスに呼びかけるんです」
 しかしこんな殻ではメタプラのように水を切り裂くことはできない。漏斗から水を噴き出してもすぐ止まってしまい、ちょっと進むにも一苦労。
 それでも、そんなたどたどしい動きさえ影絵言葉の一部なのかもしれない。
 にじんだ光が脈打ち、揺らぎ、一歩ずつ踏み出す。星とも炎とも、ホタルとも違う。お祭りの提灯と比べたとしても、この儀式の作法は人間には編み出せそうもない。
 「時の回廊」よりいっそう時間の流れを遅らせる、遠いところへといざなう燈火。
 彼女は慎重に三回撮影を試みて、あとはそれっきり、水槽の前に立ち尽くしていた。
 やがて彼女は振り返った。
「職員さん、ありがとうございました」
「よろしいですか?」
 黒い輪郭が頷いた。
 緞帳を出ると、彼女は未だに放心して口を開けていた。
 その目元に、煌めくものがあった。
 私は咄嗟に顔を逸らした。それがかえって彼女を慌てさせてしまった。
「あっ、えっと、これはその、別に変な意味ではないですよ?」
「そ、そうですか、すみません」
 見てはいけないものかと深読みするほうがおかしかったのだ。彼女はただ、深く感じ入っただけだった。自然なことではないか。
「お楽しみいただけましたか?」
「はい。本当に、来れて良かった」
 私も、来てくれて本当に良かった。
 そう口に出す代わりに、私は胸ポケットから折り畳んだ書類を一枚取り出し、彼女に渡した。
「当館では展示のガイドツアーだけでなく、バックヤードツアーも行っております。申し込み書にご記入いただければ、この後すぐにでも」
「ぜひ!」
 即答だった。最初にメタプラの殻を渡したときと全く同じ、弾ける声で。
「じゃあ、行きましょう。あ、その前にお昼ですよね。エントランスの脇に軽食堂がありますが」
「もちろんそこで。すぐ済ませますから!」
「では、三十分後にまた合流しましょう!」
 私達は急いでエレベーターに乗り込んだ。

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